インドって東南アジア?

デリー大学留学中。ヒンディー語の能力向上、インドを知り、自分を見直すためのTHE自己満。見たくない人は見なくて結構。

「いらつきは有効、大きな目標は一本」

真夏に家に帰ると、まず冷房を18度に設定する。寒くなったら、毛布に包まる。これがエネルギーの無駄遣いで、地球温暖化を助長することを指摘されても、知ったことではない。そんな現象実感がわかないし、自分が死ぬまでに地球が無くなるわけではない。夏、数度上がったって今でも暑いのだから変わらない。冬はむしろ暖かい方がいい。生態系など壊れればいい。都合の良い動物だけどうにか育てる方法を、誰かが考えるだろう。何か問題が起きても、どうせ自分が死んでからだ。こんなこと気にしていたら、何も気にしていなかった世代と比べて不公平じゃないか。

高齢者があえて若者に投票に行くな、と呼びかけ、投票率をあえて上げる動画が流行って久しく、それを言及するのも俗すぎて嫌なのだが、一言でいえばきついと思う。確かに宿題をやりなさいという言葉でやる気がそがれる小学生が多いように、頭ごなしに後の世代に何かを強制するより有効な方法ではある。今回の記事もこの一段落目で気を悪くした人がいれば俺の勝ちだが、所詮はこの方法もずっと前からこすられた方法論であって目新しくもなく、距離を置いてみれば、ひたすら押すか、一旦引くかの二択を永遠往復しているだけだ。力が隠れていても、隠れた力は工夫した強制の形として確かに残っている。如何にすれば後の世代を動かせるか。動かせればそれでいいのか。

 

今日の記事⇒11/4, 2018 Dainik jagran「汚職を止める為に戦う青年世代:州首相」

 (全文・ガバガバ翻訳)

「汚職を止める為に、私たち全員が意識を高く保つ必要がある。とりわけ青年たちは、汚職に対して戦わなければならない。汚職を終わらせてこそ、健全な社会が構成され得るのである。オリッサ州首相ナヴィーン・パトナーヤクは今週土曜日、このことを、州都で催された汚職追放大会で州の来賓として述べた」

「州首相は、監査部の働きを讃えながら、監査部の方からは汚職をはたらいた高官たちに対して厳しい対策を取っていると述べた。まさにこれは、2018年現在までに、監査部は287件の問題を掌握した成果による。これらにおいては、413人の高官たちが逮捕され、そのうち37人の高官が一等の高官で、33人が二等、238人が三等であって、四等も12人含まれる。これらの数字は、政府の汚職に対する考えを見せた」

「州首相は、汚職が根絶された州のために、全員が意識を高く保ち、戦わなければならず、そしてそれが将来の世代に健全な社会をつくる環境を作り得ると述べる。この機会に、監査部の部長デーヴァーシーシュ・パーニーグラーヒー、主任アーデッティヤ・プラサード・パーリー、監査部のDIGサンジャイ・クマールも主賓として出席していた」

汚職を終わらせるには、青年世代が意識を高く持つべきだということ。インドでは公職を中心に賄賂や横領が横行していて、これらはたびたび話題に上がる。インド人の中には、この問題はもうどうしようもないと考えている人も多くて、不動産会社によれば、自分が物件を契約する際の警察署の手続きにも袖の下が必要だったらしく、後でしっかり請求されたりした。この経験からも、汚職が当然ではないということをインド人に周知させること、インド人全員が意識を高く保つべきだということは間違いなく大切で、そこに異論はない。引っかかるのは、「これからは君たちの世代なのだから、君たちが意識を高く保たなければいけないよ」という言い方だけであった。

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正直、知ったことではないのである。年金、地球温暖化、オリンピック。俺たちの世代がどうにかしなければならない。そう前の世代から押し付けられ、残された課題が日本にも山積みだ。これらの問題がなぜ前に進まないかといえば、老いや世代を理由として、現役世代に当事者意識が無いからである。言い換えれば、問題が実際起きうるのは自分が死んだ後だから、やっている風でいようという事なかれ主義が根底にあるからである。高齢者がわざと投票に行くなと呼びかける動画は、その高齢者が事なかれ主義であるからこそ腹が立ち、「押してもだめなら引いてみよ」理論を形作るのだ。事なかれ主義を自虐的でも認めていることは良いことではある。この事なかれ主義は、後代へ責任を転嫁し、自分の努力を評価する。この記事もまさにそうでしょう。

自分は違う、先が短いなりに、方法論だけでも示したいのだ。やる気だけでも引き立たせたいのだ。確かにこんな風に、どうしたら後代が一生懸命になるかについての方法論を探るのも良い。挑戦を見守る大人もいて良い。だがそれ以上に、後の世代をどう動かすか常に考える大人より、自分の世代でどうにかすべての問題を解決したいと考える大人の背中がより美しく、尊敬できるように思えるのは、この世界にまだまだ必要な人だと思えるのは、自分だけであろうか。

 

自分の父は、「頑張らないと自分のようになるぞ」とよく言う。毎朝通勤電車に詰め込まれて、一日中頭を下げて、夜もぎゅうぎゅうの電車に乗って帰る。そうやって一生懸命稼いだお金も子供にたくさん使われて、文句も言わず、唯一の趣味、釣りに向かうときは一般道しか使えない。それでも、いつでも自分を優しく見守ってくれるそんな父を尊敬し、そうなりたいと思えるからこそ、この「逆説の強制」は正直自分には全く通用していないから、父は方法論を再考する必要があろう。父の背中を追ってもうすぐ21年になろうとしている。

 

(元記事:https://www.jagran.com/odisha/bhubaneshwar-cm-naveen-patnaik-say-youth-fight-to-curption-determent-18604776.html

「ゆめのはなし」

インドといえばターバンを思い浮かべる人が多いけれど、実はターバンを着けているのはシク教徒だけなんですね、シク教徒はインド人口でも少数派の方なんですよ。こんな知識は、こすりにこすられた薄すぎるインド知識であって誰でも知っていることだが、普通の会話ではこのレベルを言及するくらいがちょうど良いのかもしれないと思う。シク教は誤りで、正しくはスィク教なんですよ、まで言及すると十中八九引かれる。そんなこと一般的にはどっちでもいいことだからである。

 

昨日、いつものように寝る前に「今日の記事」を訳して、スマートフォンを見て寝た。そしてそのときFacebookで友達がシェアしていた記事と、自分が訳した記事に影響を受けて、怖い夢を見た。いつも前を通ると飛び起きて吠える犬が夢では起きずに横たわっていた。家の周りが燃えていて滅茶苦茶暑くて、いつも優しい、隣に住む大家さんが殺されていた。アイロン屋のインド人が俺になぜか日本語で隠れるように指示した。爆音が聞こえた。昨日の夜見た、友達がシェアした記事は「対シク教徒暴動」についてで、1984年の昨日、インドはそういう日だった。

 

今日の記事⇒10/31, 2018 Dainik jagran「弾道ミサイル、アグニ(火)1号の実験成功に伴って原子爆弾を投下し得る」

(全文だけどガバガバ翻訳)

「今週火曜日の夜に、インドは、核兵器を運ぶ能力を持つ国産の弾道ミサイル・アグニ1号の発射実験を成功させた。このミサイルは、700キロの距離までの標的を射得る」

「インド軍筋によれば、統括部は、計画の準備を強固にするため、アブドゥル・カラーム博士に、島からのミサイル実験をさせたということである。インド軍筋は、実験の間、すべての目標が達成されたとも述べる」

「この攻撃力はかなり大きく、数百キロの道のりを超えて、標的を破壊し得る。国産の弾道ミサイル・アグニ1号の、成功に終わった発射実験は、オリッサ州において火曜日の夜に行われたということだ」

「付記したいのは、大陸間弾道ミサイル・アグニ5号の実験も、インドは既に成功しているということだ。防衛研究開発機構(DRDI)によって作られたアグニ5号が、軍で一番発達したバージョンである」

自己防衛や抑止力のために核やミサイルは必要不可欠だという考えは良くわかり、自分もどちらかといえば賛成の立場だ。日本は唯一の被爆国として、核兵器を持たないことを頑なに守ろうとするが、自分は持っても良いと思う。使わなければ良い話で、抑止力として自分の大切な人たちが守られるなら、それも立派な政策だ。だからインドのこの実験に対して、平和を壊すな、などとほっそい一本槍で否定するつもりは毛頭ない、と昨日の夜までは書こうと思っていた。

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1984年の今日。いつの時代も、どんな分野でも、人口は力だ。だから多数派のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が南アジアで幅を利かせていて、少数派のシク教徒は日陰にいるということもあったのだろう。そもそもシク教は、ヒンドゥー教とイスラーム教のどちらにも影響を受けた宗教で、かつ同時に両者に反して生まれた宗教でもあって、そんな立ち位置が故の被害も少なくない。そして1984年11月2日もそうだったのかもしれない。34年前の昨日、シク教徒の虐殺が始まり、34年前の今日も死者は増え続けた。この虐殺は34年前の一昨日にインディラ・ガーンディー首相暗殺がシク教徒のボディーガードによってなされたことに起因し、その報復として、ここぞとばかりにアンチ・シク教徒のヒンドゥー教徒らによって行われたもので、これによって8000人もの罪のないシク教徒が殺され、その何倍ものシク教徒が負傷したり、家を燃やされたりしたのだった。

 

夢から覚めても、このインドのミサイル実験を否定するつもりはやはり毛頭ない。パーキスターンや中国に対抗しなければいけない状況下で必要なものは仕方がない。インドの偉くて、頭が良い人が出した結論で、自分が言えることは何もない。ただ、俺が見た夢は、過去大勢が死んだちょうどその日に、大勢を殺すものが出来上がったことを異常に重く感じさせた。夢は夢で、今日大家さんにはきっちり家賃をとられ、相変わらず家の前の犬は俺を敵視し、もう慣れろよと思わせた。だが1984年と2018年の昨日の出来事は夢でなく確かに事実で、この重さは、まるで自分の夢のように、誰かの大切なものを壊し燃やし得る責任の重さだと思ったりした。この日常を壊し得るものは何であっても悪だとすら思えたりした。

 

力を持つなら責任も伴わなければならない。力を追い求めると同時に、責任も振り返らなければならない。それはどんな分野でもそうだ。リレーメンバー補欠、生徒会会計。学校すら背負う力もないぶん、責任もなかった自分は気楽だった。それにしてもこのシク教徒の歴史知識は深すぎる。これをひけらかしても十中八九引かれよう。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-agni1-ballistic-missile-successfully-tested-18592030.html

「劇場」

一番好きな文学作品を聞く質問は、センスや教養を問われているようで、いつも答えに詰まる。自分をセンス良く見せるなら、この質問にベストセラーを答えるのは論外、芸能人が著した作品もすれすれ、文学への知識の浅さを露呈してしまうから避けるべきなのだが、どう考えても自分が一番好きな作品は、又吉直樹の『劇場』で揺るぎない。

 

何回読み返したかわからない。『劇場』の序盤にこんな一説がある。

「右のポケットが振動し、携帯をひらくと「ごめん!全然暇なんだけど!」という文面だった。それを目にした瞬間、頬肉が溶けてしまうあの感覚。ドブにあごまで浸かっているかのように身体が重たくなった。現実の痛みは常に予想を凌駕する」

主人公は、メールで「暇だったら来てほしい」とデートに誘い、この返信を得、そして落胆したのだ。

 

今日の記事⇒10/28, 2018 Dainik jagran「安倍晋三と抱擁したあと、PMモーディーは特別な贈り物を送った。さて何を送ったのか」

(引用・ガバガバ翻訳)

「インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーは2日に渡る視察のため、土曜日に日本に到着した。そして山梨県で日本の首相、安倍晋三と面会した。富士山のホテルでの面会の間、モーディーは安倍晋三に、インドから運ばれた特別な贈り物を贈った」

モーディーが来日し、安倍総理と会談したことは日本のメディアでも比較的大きく報道されていたと思うが、この記事は来日の際、安倍総理に贈った贈り物について。

「インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーは、日本の首相安倍晋三に、ウッタル・プラデーシュ州のミルジャープルの職工たちによる手作りのダリー(注・厚手の綿織物)、バラ色の水晶と黄色の水晶2つの手作りのカトーラー(注・お椀的なやつ)を贈った。これは、特別にインド・日本の例年の首脳会談のための、日本への旅程の機会に準備されたものである」

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綺麗。

安倍晋三は、インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーを、列車で山梨県にある自身の私邸に連れて行った。東京から山梨の距離は110㎞である。この地域は、富士山のいくつかの山々に囲まれている。富士山は日本で一番高い山で、その高さは3776ⅿである」

この会談の概要と目的については以下の通り。

インド・日本の毎年の会談においては、インド太平洋地域の相互の協力を増す話をするようである。他国の共同インフラ整備プロジェクトとともに防衛協力を増大させることに力を入れることになる。両国の間ではAIUAB、そしてロボット技術の発展も増やす展望もある。連邦首相になった後、モーディーは安倍との間で、これが12回目の会談となる」

「インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーは金曜日に出した声明で、日本を経済・技術分野で一番信用できるパートナーだという。モーディーは、Act East Policyに基づいてインドが太平洋地域において、自治権と開放のために決断すると述べる。モーディーは日本と共に商業を活発にすることをめぐって、安倍晋三、ビジネスリーダーと共に話をする予定だ。これによってヘルスケア、デジタルテクノロジー、農業、食品加工、災害の脅威を減らす対策建設の分野でも協力を得ることになる」

日本もインドも、中国を脅威に感じている国であって、この会談によってインドと日本が様々な分野で協力し、中国に対抗する枠組みを作るという意味がある。インドにおける鉄道敷設に日本が協力したように、今後は様々な場面で日本が活躍するだろう。

安倍総理は自身の別荘にモーディーを招いてふたりきりでご飯を食べたそうだが、有意義な会話が出来ていたら良いと心から思う。自分と異なる点が多ければ多いほど、表現とその受け取りに食い違いが生じやすく、ふたりの地位を鑑みれば、食い違いが生じ得る結果はこわいから、仲がいいのは結構なことだが、ふたりきりとは名ばかりで通訳も一緒にご飯を食べていて欲しい。

 

先日仲良くなったインド人の子と出かけ、SNSで会話をしていたとき、食い違いを生じさせそうになった。その子は日本語を勉強しているが、まだ拙い。その子の「またどこかで」。この返信が日本語特有の拒絶の形を心得たが故なのか、ただの言葉足らずなのか、即座に判断するのは難しい。こんなふうに、場合によっては逆の結果を招くかもしれない食い違いが、異国、異性…様々な「異」故に溢れるのは当然だとわかっているにしても、「異」に向き合うのもそれはそれで怖く、その怖さに向き合うくらいなら、関係を断ち切った方がましだと思ったりして、その別学出身的な内気思考が「異」を断ち、望まない結果と後悔を残したりしてきた。

 

『劇場』では、主人公が「異」を断ち、こう返信する。

「今まで色々とご迷惑をお掛けしました。いつかお会い出来ましたら珈琲代をお返しします。どうぞお元気で」するとこう返信が返ってくる。

「違うよ!ぜひってことだよ!明日、昼以降は空いてるよ」

これもやはり、表現の食い違いだったのである。ただ食い違いが直せるこんな相手だったら、食い違いもまあ悪くない。ここから物語が始まる。

 

(元記事:https://www.jagran.com/politics/national-pm-narendra-modi-presented-japanese-pm-shinzo-abe-two-handcrafted-stone-bowls-and-hand-woven-dhurries-18581105.html

(引用:『新潮2017年4月号』「劇場」又吉直樹著、26、27項)

「説得力と引き換えに涙の経験を」

人の心を動かすのに同情と共感は強いと信じているが、その裏を返せば、同時に、どちらかが無ければ、多くの場合人を動かすまでには至らないことを認識しているということで、では自分がその原則に則った言動を日々心掛けているかというと、そうではない。主張が長くなると同情や共感が弱まるが、それらの経験はあくまで主張を助けるものだから、経験が複雑だと論旨がつかめなくなる。面倒くさがってこの平衡を掴もうとしないから、未だに俺の主張は中学生レベルなのである。

 

弁論も然り、主張が経験で支えられたもので、経験の内容、そしてその平衡性が主張の説得力を大きく左右する。先日、インド人の日本語弁論大会を見に行ったが、その多くが、共感や同情を誘う経験を携えていた。主張は多様でも、それはもう万国共通で、やはり共感や同情には価値があるのである。大好きだった彼女にふられた。部活でハブられた。学校でいじめられて、不登校になった。可哀想に。その感情で、主張を受け入れる準備は整う。

 

今日の記事⇒10/25, 2018 Dainik jagran「デリー大学教授は述べた、イスラーム原理によればテロリズムは正当ではない」

(引用・だいぶガバガバ翻訳)

「マッディヤ・プラデーシュ州のインドールで、デリー大学の教授サイヤド・パザル・ウッラーフ・チシュターは、人々がそれぞれの宗教を理解しておらず、それらに反してしまっている、と述べる。今日、子供たちはイスラーム教について、GoogleやWhatsAppから知識を得ている」

「イスラーム教のもうひとつの宗派のためにいくつの場所があるのかすら、人々は知らない。実はテロリズムはイスラーム原理の考えにも全く即しておらず、そしてジハードの名のもとに人々が行っている殺人といった悪行も、誤りなのである」

イスラーム国が、「イスラームの教義に基づいて」という名目で数々のテロ行為を行っていることは日本のインド専攻の学生でも知っている。どう考えても教義なら仕方ない、の範囲を超えていることは明らかな気がするが、この実は…的なテンションは皮肉か。

「チシュターは、イスラーム教、心の落ち着きとテロリズムのテーマについて開催された講演において呼びかけていた。彼は、すべての宗教には、地球全体が家族であるという精神とともにあろうとするような人々もいる、と述べた。コーランはすべての人々の利益のためにあって、それはコーランで300回より多く、人々をめぐって呼びかけられているところにも表れている。イスラーム教徒をめぐっては、17回言及されている」

「すべての宗教の人々は、宗教間の隔たりと誤解を終わらせ得るために、それぞれについて知った方が良い。力ずくで誰かに何かを押し付けることのないように。これらはもはや宗教ではない。あなたには、あなた自身の宗教を信じ続けても、他の宗教を知る努力をしてほしい」

多くの宗教で神は母で、世界は家族。家族ならば殺しを行うなんてもっての他、お互いを知ることは当たり前で、記事としては綺麗な締め方だと思うし、作文としても素晴らしい手堅さではないかと思う。ただこの記事はいつもと違い、主張が含む記事で、啓発的な意味を含む。インド人の姿勢を変えることを目的とするなら、この記事では目的は果たされないように思う。イスラーム国のメンバーでなくして、世界で、またひいてはインドで、誰がイスラーム国のテロリズムを正当だと感じているのか。この行動が誤っていることは、もう皆わかっていることである。

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2001年、同時多発テロ事件で、多くの人が死んだこと。イスラーム国が起こすテロ行為で、今も多くの人が死んでいること。その一方で、それらの行動に携わっていなくても、イスラーム教徒であるだけで迫害されたり、殺されたりしたこと。死んだ人への同情の余地、インドのイスラーム教徒だからこそわかる、迫害されている世界中のイスラーム教徒への共感の余地はいたるところに転がっていて、それは立派に主張を助け得るのに、「間違っている」という専門家の言葉をここぞと材料にするのは有効ではない。普段記事でだらだら垂れ流す実害たちのような、具体的な経験に向き合う過程と主張が合わさってこそ、主張が輝くのである。

 

大好きだった彼女にふられた青年は、英語が話せないことでふられたという事実に向き合い、一生懸命英語を勉強して、学校で1位の成績を取ったそうである。部活でハブにされた女の子は、一生懸命ひとりで練習して、実力で仲間の信頼を勝ち取ったそうである。学校でいじめられて不登校になった女の子は、世界で最も怖い武器は暴力でもなく、兵器でもなく、言葉だということに気付いたその経験から、今それを伝える活動を行っているそうである。

 

どんなに面白い言葉でも、何回も笑うことはできないのに、どうしてひとつのことには苦しみ続けるのか。これも弁論にあった言葉だが、つらい経験に向き合うことを後押しする良い主張だ。ここまで偉そうに書いた自分も、主張と経験との平衡性がとれていないどころか、今もつらい経験に向き合うことを恐れているひとりである。もうそろそろ自分も前を向くことにしよう。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-du-professor-says-according-to-islamic-law-terrorism-is-not-right-18571429.html

「3 idiots」

これは揺るぎない持論だが、行動を起こすには3人がベストだと思う。2人だととにかく日常の話題に気を遣い、逆に4人以上だとどうしても個々の存在感が薄まる。3人でいれば、つまらない奴でもキャラが立たないキャラとしてギリ存在できることに気付いたのである。

物語における友情に3人組が多いのにも意味があるのだろう。3人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、賢者の石を得る為に罠を奥に進む冒険も、8つの宝石を集める旅も、ズッコケだらけの日常も、3人の個性があってこそ前に進んだ。唯一の欠点、多数決の成立する最小人数ゆえ起こる、少数派意見の弱さがもどかしくページ数を食う点には目を瞑ろう。

 

今日の記事⇒10/24, 2018 Dainik jagran「チャーバハールでインド、アフガニスタン、そしてイランが初めて三国会談を行った」

(全文・イキリガバガバ翻訳)

「インド、アフガニスタン、そしてイランは、今週火曜、イランの都市チャーバハールの港プロジェクトについて、最初の三国会談を行った。この会議においては、プロジェクトの実現への確認がなされた。この会議の意義の大きさは、戦略上の観点から重要なこの港は、イランに対するアメリカの制裁の範囲内となっているという理由によって、より一層大きいものである」

「インド外務省は、チャーバハール港を介する国際的な乗り継ぎと運搬のための三国の取り決めの十分な運用について、三国が広く意見交換した、と述べる。インドとアフガニスタン、イランは、2016年の5月に、ひとつの取り決めに署名し、それに基づいてチャーバハール港の使用による三国の間での乗り継ぎ、運搬の航路を作ることが定められていたことも書かせてほしい。インド外務省は、会談において、この取り決めをフォローアップする委員会を設置することも決められ、そのチャーバハール港の最初の会談から、2か月以内になされるだろうということも述べた」

 チャーバハール港はここ。

f:id:yhkDELHI:20181026034755j:plain インドはこの港を介してイラン、アフガニスタン市場を開拓しようとしているところで、この三国の結びつきはこれからも強くなっていきそうだ。

f:id:yhkDELHI:20181026034825j:plain インドに留学行くことすら快く思わなかった俺の祖父母は、イランに行くにも、アフガニスタンに行くのにもきっと反対するだろう。これはつまりこの三国全てが危険で、クセモノだということだ。同じ三国の印象でも、例えば英語圏の優等生たち、アメリカ、イギリス、オーストラリアが与える印象とはまったく異なるのは明らかで、これは埼玉北部の年配に限らず、世界的に感じられる差異だと思う。

 

 ただしかし、自分がこれからの可能性を感じるのはやはり前者の三国だ。可能性は成長の余地で、可能性は面白みでもある。旅も冒険も日常も、癖のある3人の個性によって彩られたように、現実もクセモノといると面白いのだろうと思う。クセモノと現実との化学反応は笑ってしまい、そのくせ、クセモノの将来は普通の奴よりも輝いているような気がしてしまうのは憧れからだろうか。

 

思い返せば、大学でいつも俺と一緒にいた2人はかなりクセモノで、だからこそ毎日が楽しくて仕方が無くて、一緒にいると、自分まで特別な存在である気がしてくるから不思議だった。まだインド三ヶ月目だが、日本に帰ってその2人に会いたく思うのは、彼らのようなクセモノが彩る世界が何より鮮やかで、恋しいからだ。

この三国も、仲良くすればAAL IZZ WELL。きっとうまくいく。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-first-trilateral-meeting-between-india-afghanistan-and-iran-on-chabahar-18564714.html

(地図:http://parstoday.com/ja/news/iran-i36456

 

「日本に帰った両親への寂しさが回想させる自己犠牲」

お盆には律儀にいそいそと墓参りをし、正月にはいそいそと初詣に出かけ、クリスマスには美味しいケーキをいそいそと買いに行く宗教的浮気性の父のもとに生まれたから、ひとつの宗教に捧げる敬虔な信心深さとは縁遠く育った。自分が小さいとき、父は苔の生えた墓石を毎年懲りずにごしごしこすりながら、神様なんていないかもしれないけれど、気づいたときにお墓を掃除しようという精神が大事なんだよ、と胡散臭い宗教家のようなことをよく言っていた。

 

自分と弟が高3の秋を迎えたとき、そんな父がジョギングを始めた。そこまで太っていないのにな、と思ったけれど、何も言わなかった。弟が推薦入試をひとつ失敗し、俺も受験が近づいてきてストレスが溜まってくると、毎日家族のライングループに貼られる、父のジョギング距離のスクリーンショットと、嬉しそうな報告に2人とも返信しなくなった。丁度2人の受験が終わったときくらいに、運動不足気味だった父の足は悲鳴を上げ、疲労骨折と診断された。でも父はなぜか満足げに見えた。

 

今日の記事⇒10/21, 2018 Dainik jagran「100時間のバンダールで世界記録を作る挑戦の中にあるインドール」

(引用・毎度ガバガバ翻訳)

「マッディヤ・プラデーシュ州のインドールには、100時間の特別なサーイー・バンダールの2日目である土曜日の夜までに、5万人より多くの信者が到着した。サーイー・バーバーを祀る寺で、サーイー・バーバーの100回忌目の日に、この100時間連続のバンダールが始まったのであった。ゴールデンブック・オブ・ワールドレコーズのチームはこのバンダールの記録をしているところである。ここでは、4時間ごとに出される食べ物のメニューが変えられている。日曜日には、このカレーに南インド料理が盛られる予定だ」

 

バンダールは、インドで、信者や行者たちに食事を振る舞う、炊き出しのようなもののことを言う。サーイー・バーバーは、ヒンドゥー教のヨーガ行者でもあり、イスラーム教のファキールという修行僧でもあった宗教指導者であり、宗教を超えた「聖者」であって、数多くの信者を持つ。日本でもよくあるような挑戦だが、ギネスを狙うのではなく、これはギネスの宗教版のようなゴールデンブックの記録を狙っている。

 

「実行委員会は、10月23日の夕方6時に、世界で1番大きなバンダールの勲章は、この催しに与えられるだろう、と述べる。バンダールにおいては、食事を盛り、食器をきれいにするためにも信者の中に競争がある。実行委員長スレーシュ・ヤーダヴと、報道担当者のハリー・アグラワールは、バンダールを作り出したサーイーラム・カセーラーの指導の中で、今回は42万1000人よりも多くの信者がここで食べ物の恩恵を受ける予定だという」

「サーイー・バーバーの命日では、4年前からバンダールが開催されているところだ。今回はじめて100時間のバンダールが予定されている。崇拝・奉仕委員会の委員長モーハンラール・ソーニーによれば、バンダールではいつもローティーとともにキチュリー、ベーサン、マッカンバラー、ハルワー(注・いずれもインド料理)が盛られている。10月21日の朝10時から、タミル語圏コミュニティの協力と、組織の努力によってバンダールに、南インド料理が盛られる予定だ」

このバンダールが行われるインドールは北インドの平野部にあるが、南インドの料理が出されるということには、サーイー・バーバーやバンダールの規模の大きさが現れているのだろうか。100時間、42万人の参加者。敬虔な信者の敬虔な働きぶりが伺える。食べるだけの参加者はいざ知らず、これを運営するのはすべて信者だからだ。

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受験のストレスで、父のジョギング距離のスクリーンショットを見なくなったし、父の走っていたコースなんて知る由もなかったが、自分達が勉強を始めると同時に、父は10キロ先の地蔵を折り返し地点に定めて走り、自分達の受験の成功を毎日祈っていたのだと後で聞いた。子の受験に父が協力できるのは神頼みくらいだと、神様なんていないかもしれない、と言っていたはずの父も、会社から帰ると夜遅くに静かに家を出ていたのだった。

弟が推薦入試をひとつ失敗した夜。父は地蔵に走り、地蔵に向かって怒った。

こんなに毎日祈っているのに、どうしてあんなに頑張っていたやつを合格させてくれないんだ。やっぱり神様なんていないんじゃないか。

息子の頑張りを信じて、物言わぬ地蔵に怒る父を想像すると心が痛む。しかし弟が再び次の日から勉強を始めると、父もまた次の日から同じように走り始めた。昨日は怒ってすまなかった、自分もまた頑張って毎日祈りに来るから、今度こそは合格させてやってください、と祈るために。

自分たちが合格すると同じくらいに、父は疲労骨折をした。ほとんど運動をしなかったのに、急に毎日20キロ走るようになったのだから当たり前のことだった。お供えをするみたいに、何かを犠牲にしなければ、やっぱり願いは叶わないんだなあ、と父は嬉しそうに笑った。その日まで、父は毎日地蔵に祈るために走りに出ていたことを隠していて、その日から、父は走るのをやめた。

 

神様がいるかいないかは誰にもわからない。でもどの宗教だって、ある程度の自己犠牲を要求するものである。この記事のバンダールも、配膳・掃除をするのは信者だ。シク教の寺院であるグルドワーラーでは、信者が靴の管理をしたり、食事を振る舞ったりする。仏教寺院のお賽銭やお布施、イスラーム教のザカートという喜捨。その大きさはどうあれ、どれもみんな自己犠牲で、その犠牲が誰かを生かしている。自己犠牲は強い利己心があってはできないと思うから、利己心を捨てる過程が必要で、その過程こそが人を良くし、それが周りも良くし、願いが叶ったり、成功が手に入ったりするのではないかと思う。これが、「神様が見ている」ということなのではないかと思うのである。

 

ひたすらお金を使うだけの息子に、毎年正月もお賽銭を渡した。冬休みを迎えてゲームばかりしている息子に、疲れた仕事帰り、ケーキとプレゼントを買って、手紙も添えて、サンタクロースの手柄にした。息子がキャッチボールをするのを横目に、息子を含む後代のために汗水垂らして墓石を磨いた。受験を控える息子のために、面倒くさくても、雨の日も、雪の日も、走ってお祈りに行った。

 

父の、犠牲を伴う願いが自分達に向けられていたからこそ、今の自分がある。何教徒でもない父だけれど、ほんとうに神様が見ていると良い。そろそろ、俺が自分を犠牲にする歳になる。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-indore-in-the-exercise-of-a-world-record-for-100-hours-of-bhandara-18554124.html

「ジャイアンは映画では良い奴」

「カキーン!」

などと鍵括弧で一行目を埋める小学生お決まりの作文のスタートは今でもあまり好きではない。先生が作文に工夫を求めると、小学生はまず会話文や音で一行目を埋めがちだが、これはこすりにこすられた工夫の模倣であって、楽しかったです、で作文を締めるのと同程度ありふれている表現であることに彼らは気付きやしない。かく言う自分も、ありふれたレールの上を生きる中でこの駅を通過したひとりではあるが、工夫を強いて逆に個性を殺すなら、その教育は間違っていたと今になって思う。

 

自分がつまらない人間に成長したように、小説でもドラマでも、お決まりの展開は決まって飽きを誘うものだ。しかし唯一、当初敵だった奴が味方となり、共通の敵に立ち向かうお決まりは滾るものがありやしないか、と思っている。「金色のガッシュベル」でいえばガッシュとドラコ、「ドラゴンボール」では悟空とベジータ、あくまで休みに公開される映画の中だけだが、「ドラえもん」ののび太とジャイアンの共闘もこのお決まりに則る。話の展開よりもはるかに小さな部分であるはずの設定の裏切りが、お決まりの展開の飽きに勝るのである。

 

今日の記事⇒10/20, 2018 Dainik jagran「中国においてプラマプトラ川の岸辺に作られた湖、インドにおいては溢れる危険」

(引用・大体わかると思うけどガバガバ翻訳)

「中国におけるブラマプトラ川の岸辺で起こった地滑りによって川の流れが止められ、そしてその場所でかなり大きな湖が作られてしまった。この湖の自然に作られた側壁はいつか壊れ得るし、大量の水がアルナーチャル・プラデーシュ州の国境付近の地域に惨害をもたらし得る」

 

ブラマプトラ川は、インドと中国に渡って流れる川のことで、アルナーチャル・プラデーシュ州は中国との国境の州にあたる。中国において地滑りが起きて流域付近に湖を作り、その水が溢れた場合、インドのアルナーチャル・プラデーシュ州に影響を及ぼしうるということである。重要なのは、今インドと中国は領土問題をめぐってかなり熾烈な争いを続けているところだということ。日本と中国との対立以上の対立が、ここにはある。

 

「インド外務省のスポークスマン、ラヴィーシュ・クマールは、中印両国の役人が密に連絡を取り合っていると述べる。両国当局の最上級の協力関係が作られている。水資源省の高官によれば、中国の湖からの水漏れが始まっていて、それはすぐに太い流れになり得るという。溢れた水は、金曜日の夜にもインドに達する恐れがある」

「中国外交公館のスポークスマンであるジー・ローングは、中国はインドと共に緊急の知らせを分かつシステムを活用している、と述べる。水が溢れ出ていったら、インドの高官たちに知らせが届くだろう。中国における地滑りの件は、水曜日の朝にもチベットのミリン地域のジヤーラー村近くまで達する見込みだ」

「インドの高官たちによれば、湖ができた後、何時間か後に中国はインドに対しこの知らせを通達してきたという。時間が過ぎるとともに、この湖の規模は増えていき、障害を取り除くことによって溢れる危険性も増大する。溢れた水は金曜日の夜にもインド国境付近の地域まで入り得る。来る水の量とその速さは毎時間観察されている」

おお、協力している。中国とインドは領土問題で揉めているとはいえ、どちらも立派な国家で、一旦それは置いておかなければ大変なことになってしまうから仕方がない。当然なことだけれど、普段対立が見えているからこそ、この協力に価値があるように思えるし、滾るのだと思う。

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ただお決まりの展開では、共闘して共通の敵を倒すと、かつて敵だった奴との間に友情が芽生えていて、なんだかんだ仲が良い状態になるものだが、実際の状況でもそうなるとは考えにくい。所詮物語は物語、現実では味方とはなりやしない。魔界の王になるよりも、神龍を呼び出すよりも、ひみつ道具で世界を救うよりも、現実問題は難しく、お決まりもないから、模倣もない。現実問題では展開よりも各々の設定が複雑すぎて、その裏切りすら容易に作り出せない。どうすれば正解で、誰が勝ちなのか誰もわからないから、工夫を求められないし、飽きが来ないことだけが救いだが、だからといって現実は面白い、と結論付けるお決まりを踏みたくないし、そう言えるほど自分は世界を知っているわけではない。

 

物語は偉大だ。良い物語では、ひとつひとつの決断に意味があって、後々必ず影響を及ぼす。無駄が省かれているから、無駄な行動がひとつもなく、失敗経験も必ず糧になる。結局要約すればありふれた展開でも、ちりばめられた裏切りや工夫が物語を彩る。現実もそうなれば良い。世界を粋な展開で満たしてくれれば良い。粋な展開。最近であれば金正恩は良い線いっている。

 

そういえば映画のドラえもんを見た後、アニメのドラえもんを見るとジャイアンがまた悪い奴になっていて、幻滅したものである。インドと中国との間の現実もそうならなければ良い。どっちがジャイアンかは、この場では言及を避ける。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-in-china-artificial-lake-made-along-siang-river-flood-danger-in-india-18550802.html