インドって東南アジア?

デリー大学留学中。ヒンディー語の能力向上、インドを知り、自分を見直すためのTHE自己満。見たくない人は見なくて結構。

「あとのまつり」

自室にはいわゆる要らない物が度々溢れるが、それは後々見返して懐かしみを与えてくれるのではないかという淡い期待感が、場所を取るという自分にとっては微々たるデメリットを上回ると信じているからだ。誰かから貰った手紙や写真の実用性は確かにゼロだが、そんなことを考える方が野暮というもので、例え中学の参考書にでも、頑張った思い出が宿っているものには価値があると思っている。物には持ち主の魂が宿ると教えられてきた。

そう教えておきながら、先生という役目を8割方終えた親兼家主としては、そんなこともう知ったことではなく、彼らにとっての余分な場所を取るという大きいデメリットは捨てるというシンプルな作業を行うことで解決するから、断捨離という鬼畜の宣言を容易に下す。嫌々ながら自分も従うと、そこに残るのはスペースだけだ。自分が大切にしていた思い出の余地は、もう二度と戻っては来ず、悲しんでももうあとの祭り。がらんと残されたスペースは、さながら祭りの片づけ後のようで、物寂しくもある。

 

今日の記事⇒11/9, 2018 Dainik jagran「高額紙幣廃止の反対をする国民会議派のデモ」

(引用・長くて少し疲れるためガバガバ翻訳)

「高額紙幣の廃止から2年が完了する契機に、インド国民会議派の政治家たちは金曜日、大規模なデモ活動を行い、中央政府に対し、激しく自らのスローガンを叫んだ。彼らは、インド連邦首相、ナレーンドラ・モーディーによって2年前になされた高額紙幣廃止の号令は、インドに対する欺きであったと述べる。これによって、インド経済に損害を被ったとも述べている。インドにおいて稼働していた何千もの機械工場が閉鎖してしまった。50万より多くの人々が失業してしまった。インド国民会議派の県議会議長アルワド・クマールや、スポークスマンのラームヴィラース、前議長のムリッティユンジャエ、デーヴナーラーヤン・ヤダヴ、アクシャエラール・パースワーン博士、シャームブリー・パースワーンそしてラッルー・プラサードによって率いられデモを行っていた政治家たちは、高額紙幣の廃止がインドの情勢を困窮させたと述べているのだ。中央政府は、毎年2000万人に仕事を与えると約束したが、政府はこの約束を忘れてしまっていると指摘する」

2年前、野党インド国民会議派に対する与党BJPのナレーンドラ・モーディーは、唐突に高額紙幣の廃止を宣言した。インドにはブラックマネーが横行しているが、それらは違法な方法で得たお金であるから勿論口座には入れることができないということを逆手に取るため、唐突の宣言を下したのであった。口座に入っていれば、お金をおろすときの札の種類が変わるだけだろう、ということ。しかし実際は大混乱を巻き起こした。何日か後に、手元のお金は紙切れになる。銀行には両替のために人が押しかけた。口座に入っていなかった多額のブラックマネーを葬るために、とにかく大混乱を巻き起こした過激策である。野党インド国民会議派に限らずインド国内に大論争を生んだが、はや2年経ち、なおもインド国民会議派はデモを起こしたのだった。

「現政府を退かせるための決意をした。彼らは、インド国民会議派の指導者ラーフル・ガーンディーの指導の下、インドに評判の良い政府を作ることが必要だと述べる。高額紙幣の廃止によって、国家に対し何の利益も生じてはおらず、経済は発展する代わりに、損なわれ続けたと述べ、この政府は、いずれの前線でも失敗していると主張している。アヌグラハ・スマーラク(記念碑)から始まったデモは、ラメーシュ・チョウクまで到達した。ここでは、インド国民会議派の政治家たちは、高額紙幣の廃止からインドに起きた損害について言及した。彼らは、中央政府は声明文を完全なものにしていないと述べる。海外からのブラックマネーを戻って来させることは叶っていない。加えてこの政府は企業を統制する法律を作り、インドルピーの価値は落ち続けている。ディーゼルとガソリンの値段は増え続けている。来るインド連邦議会下院選挙においてBJPを一掃し、インド国民たちはラーフル・ガーンディーをインド連邦首相とすることを決心しよう、と彼らは述べる」

高額紙幣の廃止によって生じたメリットはデメリットを遥かに下回るというのが大方の意見だ。スワッチ・バーラト・キャンペーンや、どでかいパテール像に紛れてはいるが、インド国民会議派が主張する通り、現在インドルピーの価値は下がり続けていることは問題になっている。様々な因子が考えられようが、世の野党の形同様の主張をもってすれば、すべての責任は与党にあるというのだろう。

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ただ毎回のごとく偉そうに書いても、所詮は結果論だ。インドの偉い人、頭が良い人、お金がある人が熟考に熟考を重ねて出た結論、そしてその末路は自分の想像を超えた範囲にまで渡るのだろうから、自分が意見するなど愚の骨頂。本当に高額紙幣の廃止が、現在のインドルピーの価値の下落に関係しているのか。もたらされた工場の閉鎖は、本当に高額紙幣の廃止だけが故なのか。現実に数々起こる問題は数えきれない要因によって起こり、一つの行動のみに起因することは絶対に無く、無知な自分が判断し得る範疇を超えている。

 

だが捨てるという行為は、どう頑張っても元に戻ることができない過程だと俺は信じている。再び捨てたものを戻しても、捨てたことで生じた影響は確実にその邪魔をし、いずれにせよ不便や不満を生じるものだからだ。思い出に満ちた参考書を捨てた後に同じ参考書を買っても、そこには思い入れがないから不満が付随する。一旦廃止した紙幣を復活させても、増やした小額紙幣やそれに伴って生まれた人々の習慣はすぐには戻らず、インド経済にまた影響を与えうるから、これには不便が付随する。いつだって捨てるという行為は仕事量の割に大きすぎる決断を要するものだ。

 

結局、悲しんでもあとの祭りとなった部屋がまた思い出の余地という名の不要物で満ちるように、また問題が続々生じてしまうのが世の摂理なことは確かだ。

 

(元記事:https://www.jagran.com/bihar/aurangabad-congress-procession-18620450.html

「郷愁」

年始の恒例行事である餅つきを、我が家では年末に行う。もち米を冷たい水で洗い、窯を組み立てて、窯の中にそのもち米と水を入れるところまでは大人の仕事。俺と弟は、枝を集めて火の前に座り、適度に木を加える火の番が主な仕事で、仕事量はただテレビを見るのと変わりはしないのだが、甘々な祖父母はこの仕事すら褒めたから、毎年得意げになったものだった。小学一年生の自分は、二十歳になっても祖父母は自分達に甘々で、自分達が相も変わらず火の番で満足しているとは思いもしなかっただろう。

                 

そんなわけで、冬の冷たい空気と、何かが燃えた匂いは餅つきを連想し、祖父母の家がある田舎への郷愁と、家族団欒のワクワク感を思い出させるのだが、インドでは今週はディーワーリーというお祭りで、これでもかと花火やら爆竹やらを鳴らしたから、もう寒い朝の空気とその残り香が先述の年末の日常を脳裏によぎらせた。ディーワーリーは基本的に家族で祝う祭りで、本格的に夜になると街に人が少なくなったことが、昨夜独りぼっちな自分と自然と対比されたこともあって、忘れかけていた留学序盤の寂しさが再び自分の体調を崩そうとしていた。

 

今日の記事⇒「ディーワーリーの次の日、デリー・NCRに来る冬」

(全文・祭り後のふわふわ感で翻訳の甘さに拍車がかかる)

「ディーワーリー祭の次の日である木曜日に、デリーの長いいつもの冬が、NCRの戸を叩く。気象庁によれば、山間部で降雪があることによって、デリーでも寒さが増すということだ。数日前から冬の空気とともに太陽の熱が弱くなったことで、寒さを感じさせ始める地域の人々に、衣装缶にしまってあった服を引っ張り出させ始めた、ディーワーリーの次の日、冬の寒さが増してくることで、セーター姿も見受けられた。これだけではなく、バイクを移動手段とする人々はジャケットすら着ながら運転していた」

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NCRのいくつかの地域でも、布団と毛布の日々へ戻した。ほとんどの家々では、暖かい服が引っ張り出された。朝夕、道に出る人々は暖かい服と共に外に出ている。どうあれ、寒さの日々が日ごとに増してきている」

まずNCRとは、首都ニューデリーを含む首都圏地域一体を表す。具体的には、デリーと、デリー以南に位置するグルガオン含むハリヤーナー州の一部、そしてノイダ含むウッタル・プラデーシュ州の一部にあたる。日本では夏の暑さは彼岸で一区切りであるのに対し、デリーの暑さもディーワーリーまでというのは在印日本人では良く言われることだ。インドでも朝晩はもうパーカーを着ないと寒い季節になっている。

 

夏の暑さで郷愁に駆られたり、物寂しさを感じたりすることは少ないのに、寒さがこれらを運びやすいのはなぜだろう。寒くなった空気と、火薬のにおいが楽しかった田舎での年末の光景を思い浮かばせると、普段気にも留めないような、ディーワーリーセールに集団を為す家族連れが、自然に目に入るのはなぜだろう。この郷愁と光景は、とにかく一人暮らしがしたいと駄々をこねていた過去の自分を責めるが、またどうせ帰国したら一人暮らしへの夢を膨らませるのだと思うと不思議な感じがする。

 

独りぼっちで家に帰る。3階の自宅まで、階段の一段一段に蝋燭が置かれていて、階段は普段より明るく照らされていたが、心は晴れなかった。爆竹の音と楽しそうな声にいらついてイヤホンをつけようとしたら、ベルが鳴った。誰かと思えば、お菓子を持った大家さんだった。

ハッピーディーワーリー。お菓子は甘すぎたが、近ごろはインドも悪くないと思える時があったりする。爆竹の音はムービーに収めることにした。

 

 

(元記事:https://www.jagran.com/delhi/new-delhi-city-ncr-winter-season-comes-in-delhi-and-ncr-18616705.html

 

「いらつきは有効、大きな目標は一本」

真夏に家に帰ると、まず冷房を18度に設定する。寒くなったら、毛布に包まる。これがエネルギーの無駄遣いで、地球温暖化を助長することを指摘されても、知ったことではない。そんな現象実感がわかないし、自分が死ぬまでに地球が無くなるわけではない。夏、数度上がったって今でも暑いのだから変わらない。冬はむしろ暖かい方がいい。生態系など壊れればいい。都合の良い動物だけどうにか育てる方法を、誰かが考えるだろう。何か問題が起きても、どうせ自分が死んでからだ。こんなこと気にしていたら、何も気にしていなかった世代と比べて不公平じゃないか。

高齢者があえて若者に投票に行くな、と呼びかけ、投票率をあえて上げる動画が流行って久しく、それを言及するのも俗すぎて嫌なのだが、一言でいえばきついと思う。確かに宿題をやりなさいという言葉でやる気がそがれる小学生が多いように、頭ごなしに後の世代に何かを強制するより有効な方法ではある。今回の記事もこの一段落目で気を悪くした人がいれば俺の勝ちだが、所詮はこの方法もずっと前からこすられた方法論であって目新しくもなく、距離を置いてみれば、ひたすら押すか、一旦引くかの二択を永遠往復しているだけだ。力が隠れていても、隠れた力は工夫した強制の形として確かに残っている。如何にすれば後の世代を動かせるか。動かせればそれでいいのか。

 

今日の記事⇒11/4, 2018 Dainik jagran「汚職を止める為に戦う青年世代:州首相」

 (全文・ガバガバ翻訳)

「汚職を止める為に、私たち全員が意識を高く保つ必要がある。とりわけ青年たちは、汚職に対して戦わなければならない。汚職を終わらせてこそ、健全な社会が構成され得るのである。オリッサ州首相ナヴィーン・パトナーヤクは今週土曜日、このことを、州都で催された汚職追放大会で州の来賓として述べた」

「州首相は、監査部の働きを讃えながら、監査部の方からは汚職をはたらいた高官たちに対して厳しい対策を取っていると述べた。まさにこれは、2018年現在までに、監査部は287件の問題を掌握した成果による。これらにおいては、413人の高官たちが逮捕され、そのうち37人の高官が一等の高官で、33人が二等、238人が三等であって、四等も12人含まれる。これらの数字は、政府の汚職に対する考えを見せた」

「州首相は、汚職が根絶された州のために、全員が意識を高く保ち、戦わなければならず、そしてそれが将来の世代に健全な社会をつくる環境を作り得ると述べる。この機会に、監査部の部長デーヴァーシーシュ・パーニーグラーヒー、主任アーデッティヤ・プラサード・パーリー、監査部のDIGサンジャイ・クマールも主賓として出席していた」

汚職を終わらせるには、青年世代が意識を高く持つべきだということ。インドでは公職を中心に賄賂や横領が横行していて、これらはたびたび話題に上がる。インド人の中には、この問題はもうどうしようもないと考えている人も多くて、不動産会社によれば、自分が物件を契約する際の警察署の手続きにも袖の下が必要だったらしく、後でしっかり請求されたりした。この経験からも、汚職が当然ではないということをインド人に周知させること、インド人全員が意識を高く保つべきだということは間違いなく大切で、そこに異論はない。引っかかるのは、「これからは君たちの世代なのだから、君たちが意識を高く保たなければいけないよ」という言い方だけであった。

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正直、知ったことではないのである。年金、地球温暖化、オリンピック。俺たちの世代がどうにかしなければならない。そう前の世代から押し付けられ、残された課題が日本にも山積みだ。これらの問題がなぜ前に進まないかといえば、老いや世代を理由として、現役世代に当事者意識が無いからである。言い換えれば、問題が実際起きうるのは自分が死んだ後だから、やっている風でいようという事なかれ主義が根底にあるからである。高齢者がわざと投票に行くなと呼びかける動画は、その高齢者が事なかれ主義であるからこそ腹が立ち、「押してもだめなら引いてみよ」理論を形作るのだ。事なかれ主義を自虐的でも認めていることは良いことではある。この事なかれ主義は、後代へ責任を転嫁し、自分の努力を評価する。この記事もまさにそうでしょう。

自分は違う、先が短いなりに、方法論だけでも示したいのだ。やる気だけでも引き立たせたいのだ。確かにこんな風に、どうしたら後代が一生懸命になるかについての方法論を探るのも良い。挑戦を見守る大人もいて良い。だがそれ以上に、後の世代をどう動かすか常に考える大人より、自分の世代でどうにかすべての問題を解決したいと考える大人の背中がより美しく、尊敬できるように思えるのは、この世界にまだまだ必要な人だと思えるのは、自分だけであろうか。

 

自分の父は、「頑張らないと自分のようになるぞ」とよく言う。毎朝通勤電車に詰め込まれて、一日中頭を下げて、夜もぎゅうぎゅうの電車に乗って帰る。そうやって一生懸命稼いだお金も子供にたくさん使われて、文句も言わず、唯一の趣味、釣りに向かうときは一般道しか使えない。それでも、いつでも自分を優しく見守ってくれるそんな父を尊敬し、そうなりたいと思えるからこそ、この「逆説の強制」は正直自分には全く通用していないから、父は方法論を再考する必要があろう。父の背中を追ってもうすぐ21年になろうとしている。

 

(元記事:https://www.jagran.com/odisha/bhubaneshwar-cm-naveen-patnaik-say-youth-fight-to-curption-determent-18604776.html

「ゆめのはなし」

インドといえばターバンを思い浮かべる人が多いけれど、実はターバンを着けているのはシク教徒だけなんですね、シク教徒はインド人口でも少数派の方なんですよ。こんな知識は、こすりにこすられた薄すぎるインド知識であって誰でも知っていることだが、普通の会話ではこのレベルを言及するくらいがちょうど良いのかもしれないと思う。シク教は誤りで、正しくはスィク教なんですよ、まで言及すると十中八九引かれる。そんなこと一般的にはどっちでもいいことだからである。

 

昨日、いつものように寝る前に「今日の記事」を訳して、スマートフォンを見て寝た。そしてそのときFacebookで友達がシェアしていた記事と、自分が訳した記事に影響を受けて、怖い夢を見た。いつも前を通ると飛び起きて吠える犬が夢では起きずに横たわっていた。家の周りが燃えていて滅茶苦茶暑くて、いつも優しい、隣に住む大家さんが殺されていた。アイロン屋のインド人が俺になぜか日本語で隠れるように指示した。爆音が聞こえた。昨日の夜見た、友達がシェアした記事は「対シク教徒暴動」についてで、1984年の昨日、インドはそういう日だった。

 

今日の記事⇒10/31, 2018 Dainik jagran「弾道ミサイル、アグニ(火)1号の実験成功に伴って原子爆弾を投下し得る」

(全文だけどガバガバ翻訳)

「今週火曜日の夜に、インドは、核兵器を運ぶ能力を持つ国産の弾道ミサイル・アグニ1号の発射実験を成功させた。このミサイルは、700キロの距離までの標的を射得る」

「インド軍筋によれば、統括部は、計画の準備を強固にするため、アブドゥル・カラーム博士に、島からのミサイル実験をさせたということである。インド軍筋は、実験の間、すべての目標が達成されたとも述べる」

「この攻撃力はかなり大きく、数百キロの道のりを超えて、標的を破壊し得る。国産の弾道ミサイル・アグニ1号の、成功に終わった発射実験は、オリッサ州において火曜日の夜に行われたということだ」

「付記したいのは、大陸間弾道ミサイル・アグニ5号の実験も、インドは既に成功しているということだ。防衛研究開発機構(DRDI)によって作られたアグニ5号が、軍で一番発達したバージョンである」

自己防衛や抑止力のために核やミサイルは必要不可欠だという考えは良くわかり、自分もどちらかといえば賛成の立場だ。日本は唯一の被爆国として、核兵器を持たないことを頑なに守ろうとするが、自分は持っても良いと思う。使わなければ良い話で、抑止力として自分の大切な人たちが守られるなら、それも立派な政策だ。だからインドのこの実験に対して、平和を壊すな、などとほっそい一本槍で否定するつもりは毛頭ない、と昨日の夜までは書こうと思っていた。

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1984年の今日。いつの時代も、どんな分野でも、人口は力だ。だから多数派のヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が南アジアで幅を利かせていて、少数派のシク教徒は日陰にいるということもあったのだろう。そもそもシク教は、ヒンドゥー教とイスラーム教のどちらにも影響を受けた宗教で、かつ同時に両者に反して生まれた宗教でもあって、そんな立ち位置が故の被害も少なくない。そして1984年11月2日もそうだったのかもしれない。34年前の昨日、シク教徒の虐殺が始まり、34年前の今日も死者は増え続けた。この虐殺は34年前の一昨日にインディラ・ガーンディー首相暗殺がシク教徒のボディーガードによってなされたことに起因し、その報復として、ここぞとばかりにアンチ・シク教徒のヒンドゥー教徒らによって行われたもので、これによって8000人もの罪のないシク教徒が殺され、その何倍ものシク教徒が負傷したり、家を燃やされたりしたのだった。

 

夢から覚めても、このインドのミサイル実験を否定するつもりはやはり毛頭ない。パーキスターンや中国に対抗しなければいけない状況下で必要なものは仕方がない。インドの偉くて、頭が良い人が出した結論で、自分が言えることは何もない。ただ、俺が見た夢は、過去大勢が死んだちょうどその日に、大勢を殺すものが出来上がったことを異常に重く感じさせた。夢は夢で、今日大家さんにはきっちり家賃をとられ、相変わらず家の前の犬は俺を敵視し、もう慣れろよと思わせた。だが1984年と2018年の昨日の出来事は夢でなく確かに事実で、この重さは、まるで自分の夢のように、誰かの大切なものを壊し燃やし得る責任の重さだと思ったりした。この日常を壊し得るものは何であっても悪だとすら思えたりした。

 

力を持つなら責任も伴わなければならない。力を追い求めると同時に、責任も振り返らなければならない。それはどんな分野でもそうだ。リレーメンバー補欠、生徒会会計。学校すら背負う力もないぶん、責任もなかった自分は気楽だった。それにしてもこのシク教徒の歴史知識は深すぎる。これをひけらかしても十中八九引かれよう。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-agni1-ballistic-missile-successfully-tested-18592030.html

「劇場」

一番好きな文学作品を聞く質問は、センスや教養を問われているようで、いつも答えに詰まる。自分をセンス良く見せるなら、この質問にベストセラーを答えるのは論外、芸能人が著した作品もすれすれ、文学への知識の浅さを露呈してしまうから避けるべきなのだが、どう考えても自分が一番好きな作品は、又吉直樹の『劇場』で揺るぎない。

 

何回読み返したかわからない。『劇場』の序盤にこんな一説がある。

「右のポケットが振動し、携帯をひらくと「ごめん!全然暇なんだけど!」という文面だった。それを目にした瞬間、頬肉が溶けてしまうあの感覚。ドブにあごまで浸かっているかのように身体が重たくなった。現実の痛みは常に予想を凌駕する」

主人公は、メールで「暇だったら来てほしい」とデートに誘い、この返信を得、そして落胆したのだ。

 

今日の記事⇒10/28, 2018 Dainik jagran「安倍晋三と抱擁したあと、PMモーディーは特別な贈り物を送った。さて何を送ったのか」

(引用・ガバガバ翻訳)

「インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーは2日に渡る視察のため、土曜日に日本に到着した。そして山梨県で日本の首相、安倍晋三と面会した。富士山のホテルでの面会の間、モーディーは安倍晋三に、インドから運ばれた特別な贈り物を贈った」

モーディーが来日し、安倍総理と会談したことは日本のメディアでも比較的大きく報道されていたと思うが、この記事は来日の際、安倍総理に贈った贈り物について。

「インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーは、日本の首相安倍晋三に、ウッタル・プラデーシュ州のミルジャープルの職工たちによる手作りのダリー(注・厚手の綿織物)、バラ色の水晶と黄色の水晶2つの手作りのカトーラー(注・お椀的なやつ)を贈った。これは、特別にインド・日本の例年の首脳会談のための、日本への旅程の機会に準備されたものである」

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綺麗。

安倍晋三は、インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーを、列車で山梨県にある自身の私邸に連れて行った。東京から山梨の距離は110㎞である。この地域は、富士山のいくつかの山々に囲まれている。富士山は日本で一番高い山で、その高さは3776ⅿである」

この会談の概要と目的については以下の通り。

インド・日本の毎年の会談においては、インド太平洋地域の相互の協力を増す話をするようである。他国の共同インフラ整備プロジェクトとともに防衛協力を増大させることに力を入れることになる。両国の間ではAIUAB、そしてロボット技術の発展も増やす展望もある。連邦首相になった後、モーディーは安倍との間で、これが12回目の会談となる」

「インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーは金曜日に出した声明で、日本を経済・技術分野で一番信用できるパートナーだという。モーディーは、Act East Policyに基づいてインドが太平洋地域において、自治権と開放のために決断すると述べる。モーディーは日本と共に商業を活発にすることをめぐって、安倍晋三、ビジネスリーダーと共に話をする予定だ。これによってヘルスケア、デジタルテクノロジー、農業、食品加工、災害の脅威を減らす対策建設の分野でも協力を得ることになる」

日本もインドも、中国を脅威に感じている国であって、この会談によってインドと日本が様々な分野で協力し、中国に対抗する枠組みを作るという意味がある。インドにおける鉄道敷設に日本が協力したように、今後は様々な場面で日本が活躍するだろう。

安倍総理は自身の別荘にモーディーを招いてふたりきりでご飯を食べたそうだが、有意義な会話が出来ていたら良いと心から思う。自分と異なる点が多ければ多いほど、表現とその受け取りに食い違いが生じやすく、ふたりの地位を鑑みれば、食い違いが生じ得る結果はこわいから、仲がいいのは結構なことだが、ふたりきりとは名ばかりで通訳も一緒にご飯を食べていて欲しい。

 

先日仲良くなったインド人の子と出かけ、SNSで会話をしていたとき、食い違いを生じさせそうになった。その子は日本語を勉強しているが、まだ拙い。その子の「またどこかで」。この返信が日本語特有の拒絶の形を心得たが故なのか、ただの言葉足らずなのか、即座に判断するのは難しい。こんなふうに、場合によっては逆の結果を招くかもしれない食い違いが、異国、異性…様々な「異」故に溢れるのは当然だとわかっているにしても、「異」に向き合うのもそれはそれで怖く、その怖さに向き合うくらいなら、関係を断ち切った方がましだと思ったりして、その別学出身的な内気思考が「異」を断ち、望まない結果と後悔を残したりしてきた。

 

『劇場』では、主人公が「異」を断ち、こう返信する。

「今まで色々とご迷惑をお掛けしました。いつかお会い出来ましたら珈琲代をお返しします。どうぞお元気で」するとこう返信が返ってくる。

「違うよ!ぜひってことだよ!明日、昼以降は空いてるよ」

これもやはり、表現の食い違いだったのである。ただ食い違いが直せるこんな相手だったら、食い違いもまあ悪くない。ここから物語が始まる。

 

(元記事:https://www.jagran.com/politics/national-pm-narendra-modi-presented-japanese-pm-shinzo-abe-two-handcrafted-stone-bowls-and-hand-woven-dhurries-18581105.html

(引用:『新潮2017年4月号』「劇場」又吉直樹著、26、27項)

「説得力と引き換えに涙の経験を」

人の心を動かすのに同情と共感は強いと信じているが、その裏を返せば、同時に、どちらかが無ければ、多くの場合人を動かすまでには至らないことを認識しているということで、では自分がその原則に則った言動を日々心掛けているかというと、そうではない。主張が長くなると同情や共感が弱まるが、それらの経験はあくまで主張を助けるものだから、経験が複雑だと論旨がつかめなくなる。面倒くさがってこの平衡を掴もうとしないから、未だに俺の主張は中学生レベルなのである。

 

弁論も然り、主張が経験で支えられたもので、経験の内容、そしてその平衡性が主張の説得力を大きく左右する。先日、インド人の日本語弁論大会を見に行ったが、その多くが、共感や同情を誘う経験を携えていた。主張は多様でも、それはもう万国共通で、やはり共感や同情には価値があるのである。大好きだった彼女にふられた。部活でハブられた。学校でいじめられて、不登校になった。可哀想に。その感情で、主張を受け入れる準備は整う。

 

今日の記事⇒10/25, 2018 Dainik jagran「デリー大学教授は述べた、イスラーム原理によればテロリズムは正当ではない」

(引用・だいぶガバガバ翻訳)

「マッディヤ・プラデーシュ州のインドールで、デリー大学の教授サイヤド・パザル・ウッラーフ・チシュターは、人々がそれぞれの宗教を理解しておらず、それらに反してしまっている、と述べる。今日、子供たちはイスラーム教について、GoogleやWhatsAppから知識を得ている」

「イスラーム教のもうひとつの宗派のためにいくつの場所があるのかすら、人々は知らない。実はテロリズムはイスラーム原理の考えにも全く即しておらず、そしてジハードの名のもとに人々が行っている殺人といった悪行も、誤りなのである」

イスラーム国が、「イスラームの教義に基づいて」という名目で数々のテロ行為を行っていることは日本のインド専攻の学生でも知っている。どう考えても教義なら仕方ない、の範囲を超えていることは明らかな気がするが、この実は…的なテンションは皮肉か。

「チシュターは、イスラーム教、心の落ち着きとテロリズムのテーマについて開催された講演において呼びかけていた。彼は、すべての宗教には、地球全体が家族であるという精神とともにあろうとするような人々もいる、と述べた。コーランはすべての人々の利益のためにあって、それはコーランで300回より多く、人々をめぐって呼びかけられているところにも表れている。イスラーム教徒をめぐっては、17回言及されている」

「すべての宗教の人々は、宗教間の隔たりと誤解を終わらせ得るために、それぞれについて知った方が良い。力ずくで誰かに何かを押し付けることのないように。これらはもはや宗教ではない。あなたには、あなた自身の宗教を信じ続けても、他の宗教を知る努力をしてほしい」

多くの宗教で神は母で、世界は家族。家族ならば殺しを行うなんてもっての他、お互いを知ることは当たり前で、記事としては綺麗な締め方だと思うし、作文としても素晴らしい手堅さではないかと思う。ただこの記事はいつもと違い、主張が含む記事で、啓発的な意味を含む。インド人の姿勢を変えることを目的とするなら、この記事では目的は果たされないように思う。イスラーム国のメンバーでなくして、世界で、またひいてはインドで、誰がイスラーム国のテロリズムを正当だと感じているのか。この行動が誤っていることは、もう皆わかっていることである。

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2001年、同時多発テロ事件で、多くの人が死んだこと。イスラーム国が起こすテロ行為で、今も多くの人が死んでいること。その一方で、それらの行動に携わっていなくても、イスラーム教徒であるだけで迫害されたり、殺されたりしたこと。死んだ人への同情の余地、インドのイスラーム教徒だからこそわかる、迫害されている世界中のイスラーム教徒への共感の余地はいたるところに転がっていて、それは立派に主張を助け得るのに、「間違っている」という専門家の言葉をここぞと材料にするのは有効ではない。普段記事でだらだら垂れ流す実害たちのような、具体的な経験に向き合う過程と主張が合わさってこそ、主張が輝くのである。

 

大好きだった彼女にふられた青年は、英語が話せないことでふられたという事実に向き合い、一生懸命英語を勉強して、学校で1位の成績を取ったそうである。部活でハブにされた女の子は、一生懸命ひとりで練習して、実力で仲間の信頼を勝ち取ったそうである。学校でいじめられて不登校になった女の子は、世界で最も怖い武器は暴力でもなく、兵器でもなく、言葉だということに気付いたその経験から、今それを伝える活動を行っているそうである。

 

どんなに面白い言葉でも、何回も笑うことはできないのに、どうしてひとつのことには苦しみ続けるのか。これも弁論にあった言葉だが、つらい経験に向き合うことを後押しする良い主張だ。ここまで偉そうに書いた自分も、主張と経験との平衡性がとれていないどころか、今もつらい経験に向き合うことを恐れているひとりである。もうそろそろ自分も前を向くことにしよう。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-du-professor-says-according-to-islamic-law-terrorism-is-not-right-18571429.html

「3 idiots」

これは揺るぎない持論だが、行動を起こすには3人がベストだと思う。2人だととにかく日常の話題に気を遣い、逆に4人以上だとどうしても個々の存在感が薄まる。3人でいれば、つまらない奴でもキャラが立たないキャラとしてギリ存在できることに気付いたのである。

物語における友情に3人組が多いのにも意味があるのだろう。3人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、賢者の石を得る為に罠を奥に進む冒険も、8つの宝石を集める旅も、ズッコケだらけの日常も、3人の個性があってこそ前に進んだ。唯一の欠点、多数決の成立する最小人数ゆえ起こる、少数派意見の弱さがもどかしくページ数を食う点には目を瞑ろう。

 

今日の記事⇒10/24, 2018 Dainik jagran「チャーバハールでインド、アフガニスタン、そしてイランが初めて三国会談を行った」

(全文・イキリガバガバ翻訳)

「インド、アフガニスタン、そしてイランは、今週火曜、イランの都市チャーバハールの港プロジェクトについて、最初の三国会談を行った。この会議においては、プロジェクトの実現への確認がなされた。この会議の意義の大きさは、戦略上の観点から重要なこの港は、イランに対するアメリカの制裁の範囲内となっているという理由によって、より一層大きいものである」

「インド外務省は、チャーバハール港を介する国際的な乗り継ぎと運搬のための三国の取り決めの十分な運用について、三国が広く意見交換した、と述べる。インドとアフガニスタン、イランは、2016年の5月に、ひとつの取り決めに署名し、それに基づいてチャーバハール港の使用による三国の間での乗り継ぎ、運搬の航路を作ることが定められていたことも書かせてほしい。インド外務省は、会談において、この取り決めをフォローアップする委員会を設置することも決められ、そのチャーバハール港の最初の会談から、2か月以内になされるだろうということも述べた」

 チャーバハール港はここ。

f:id:yhkDELHI:20181026034755j:plain インドはこの港を介してイラン、アフガニスタン市場を開拓しようとしているところで、この三国の結びつきはこれからも強くなっていきそうだ。

f:id:yhkDELHI:20181026034825j:plain インドに留学行くことすら快く思わなかった俺の祖父母は、イランに行くにも、アフガニスタンに行くのにもきっと反対するだろう。これはつまりこの三国全てが危険で、クセモノだということだ。同じ三国の印象でも、例えば英語圏の優等生たち、アメリカ、イギリス、オーストラリアが与える印象とはまったく異なるのは明らかで、これは埼玉北部の年配に限らず、世界的に感じられる差異だと思う。

 

 ただしかし、自分がこれからの可能性を感じるのはやはり前者の三国だ。可能性は成長の余地で、可能性は面白みでもある。旅も冒険も日常も、癖のある3人の個性によって彩られたように、現実もクセモノといると面白いのだろうと思う。クセモノと現実との化学反応は笑ってしまい、そのくせ、クセモノの将来は普通の奴よりも輝いているような気がしてしまうのは憧れからだろうか。

 

思い返せば、大学でいつも俺と一緒にいた2人はかなりクセモノで、だからこそ毎日が楽しくて仕方が無くて、一緒にいると、自分まで特別な存在である気がしてくるから不思議だった。まだインド三ヶ月目だが、日本に帰ってその2人に会いたく思うのは、彼らのようなクセモノが彩る世界が何より鮮やかで、恋しいからだ。

この三国も、仲良くすればAAL IZZ WELL。きっとうまくいく。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-first-trilateral-meeting-between-india-afghanistan-and-iran-on-chabahar-18564714.html

(地図:http://parstoday.com/ja/news/iran-i36456