インドって東南アジア?

デリー大学留学中。ヒンディー語の能力向上、インドを知り、自分を見直すためのTHE自己満。見たくない人は見なくて結構。

「日本に帰った両親への寂しさが回想させる自己犠牲」

お盆には律儀にいそいそと墓参りをし、正月にはいそいそと初詣に出かけ、クリスマスには美味しいケーキをいそいそと買いに行く宗教的浮気性の父のもとに生まれたから、ひとつの宗教に捧げる敬虔な信心深さとは縁遠く育った。自分が小さいとき、父は苔の生えた墓石を毎年懲りずにごしごしこすりながら、神様なんていないかもしれないけれど、気づいたときにお墓を掃除しようという精神が大事なんだよ、と胡散臭い宗教家のようなことをよく言っていた。

 

自分と弟が高3の秋を迎えたとき、そんな父がジョギングを始めた。そこまで太っていないのにな、と思ったけれど、何も言わなかった。弟が推薦入試をひとつ失敗し、俺も受験が近づいてきてストレスが溜まってくると、毎日家族のライングループに貼られる、父のジョギング距離のスクリーンショットと、嬉しそうな報告に2人とも返信しなくなった。丁度2人の受験が終わったときくらいに、運動不足気味だった父の足は悲鳴を上げ、疲労骨折と診断された。でも父はなぜか満足げに見えた。

 

今日の記事⇒10/21, 2018 Dainik jagran「100時間のバンダールで世界記録を作る挑戦の中にあるインドール」

(引用・毎度ガバガバ翻訳)

「マッディヤ・プラデーシュ州のインドールには、100時間の特別なサーイー・バンダールの2日目である土曜日の夜までに、5万人より多くの信者が到着した。サーイー・バーバーを祀る寺で、サーイー・バーバーの100回忌目の日に、この100時間連続のバンダールが始まったのであった。ゴールデンブック・オブ・ワールドレコーズのチームはこのバンダールの記録をしているところである。ここでは、4時間ごとに出される食べ物のメニューが変えられている。日曜日には、このカレーに南インド料理が盛られる予定だ」

 

バンダールは、インドで、信者や行者たちに食事を振る舞う、炊き出しのようなもののことを言う。サーイー・バーバーは、ヒンドゥー教のヨーガ行者でもあり、イスラーム教のファキールという修行僧でもあった宗教指導者であり、宗教を超えた「聖者」であって、数多くの信者を持つ。日本でもよくあるような挑戦だが、ギネスを狙うのではなく、これはギネスの宗教版のようなゴールデンブックの記録を狙っている。

 

「実行委員会は、10月23日の夕方6時に、世界で1番大きなバンダールの勲章は、この催しに与えられるだろう、と述べる。バンダールにおいては、食事を盛り、食器をきれいにするためにも信者の中に競争がある。実行委員長スレーシュ・ヤーダヴと、報道担当者のハリー・アグラワールは、バンダールを作り出したサーイーラム・カセーラーの指導の中で、今回は42万1000人よりも多くの信者がここで食べ物の恩恵を受ける予定だという」

「サーイー・バーバーの命日では、4年前からバンダールが開催されているところだ。今回はじめて100時間のバンダールが予定されている。崇拝・奉仕委員会の委員長モーハンラール・ソーニーによれば、バンダールではいつもローティーとともにキチュリー、ベーサン、マッカンバラー、ハルワー(注・いずれもインド料理)が盛られている。10月21日の朝10時から、タミル語圏コミュニティの協力と、組織の努力によってバンダールに、南インド料理が盛られる予定だ」

このバンダールが行われるインドールは北インドの平野部にあるが、南インドの料理が出されるということには、サーイー・バーバーやバンダールの規模の大きさが現れているのだろうか。100時間、42万人の参加者。敬虔な信者の敬虔な働きぶりが伺える。食べるだけの参加者はいざ知らず、これを運営するのはすべて信者だからだ。

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受験のストレスで、父のジョギング距離のスクリーンショットを見なくなったし、父の走っていたコースなんて知る由もなかったが、自分達が勉強を始めると同時に、父は10キロ先の地蔵を折り返し地点に定めて走り、自分達の受験の成功を毎日祈っていたのだと後で聞いた。子の受験に父が協力できるのは神頼みくらいだと、神様なんていないかもしれない、と言っていたはずの父も、会社から帰ると夜遅くに静かに家を出ていたのだった。

弟が推薦入試をひとつ失敗した夜。父は地蔵に走り、地蔵に向かって怒った。

こんなに毎日祈っているのに、どうしてあんなに頑張っていたやつを合格させてくれないんだ。やっぱり神様なんていないんじゃないか。

息子の頑張りを信じて、物言わぬ地蔵に怒る父を想像すると心が痛む。しかし弟が再び次の日から勉強を始めると、父もまた次の日から同じように走り始めた。昨日は怒ってすまなかった、自分もまた頑張って毎日祈りに来るから、今度こそは合格させてやってください、と祈るために。

自分たちが合格すると同じくらいに、父は疲労骨折をした。ほとんど運動をしなかったのに、急に毎日20キロ走るようになったのだから当たり前のことだった。お供えをするみたいに、何かを犠牲にしなければ、やっぱり願いは叶わないんだなあ、と父は嬉しそうに笑った。その日まで、父は毎日地蔵に祈るために走りに出ていたことを隠していて、その日から、父は走るのをやめた。

 

神様がいるかいないかは誰にもわからない。でもどの宗教だって、ある程度の自己犠牲を要求するものである。この記事のバンダールも、配膳・掃除をするのは信者だ。シク教の寺院であるグルドワーラーでは、信者が靴の管理をしたり、食事を振る舞ったりする。仏教寺院のお賽銭やお布施、イスラーム教のザカートという喜捨。その大きさはどうあれ、どれもみんな自己犠牲で、その犠牲が誰かを生かしている。自己犠牲は強い利己心があってはできないと思うから、利己心を捨てる過程が必要で、その過程こそが人を良くし、それが周りも良くし、願いが叶ったり、成功が手に入ったりするのではないかと思う。これが、「神様が見ている」ということなのではないかと思うのである。

 

ひたすらお金を使うだけの息子に、毎年正月もお賽銭を渡した。冬休みを迎えてゲームばかりしている息子に、疲れた仕事帰り、ケーキとプレゼントを買って、手紙も添えて、サンタクロースの手柄にした。息子がキャッチボールをするのを横目に、息子を含む後代のために汗水垂らして墓石を磨いた。受験を控える息子のために、面倒くさくても、雨の日も、雪の日も、走ってお祈りに行った。

 

父の、犠牲を伴う願いが自分達に向けられていたからこそ、今の自分がある。何教徒でもない父だけれど、ほんとうに神様が見ていると良い。そろそろ、俺が自分を犠牲にする歳になる。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-indore-in-the-exercise-of-a-world-record-for-100-hours-of-bhandara-18554124.html