インドって東南アジア?

デリー大学留学中。ヒンディー語の能力向上、インドを知り、自分を見直すためのTHE自己満。見たくない人は見なくて結構。

「大人と黒歴史」

大人になるにつれて全体を考えることが出来るようになるというのは、所詮は考えなくてはならなくなるからで、思考の本質は子供と変わりやしないと良い。大人になるということは自分の地位や収入のために、全体の利益になるように動かなければいけなくなるということで、それは当たり前のことだから、どうせ自分もいずれそう動くようになる。これは必ずしも自分がしたいことができなくなり、必ずしもなりたい自分になることができなくなることを意味し、大人になるということは寂しいことなのかもしれないと思わせたりする。

 

全体から見た自分の存在意義と向き合わずにやりたいことが出来るピークは小学生のときで、これは例えば運動が得意ではないクラスの二軍でも運動会の応援団員になれたり、サッカーが得意ではなくても意気揚々と休み時間のサッカーに参加できたり、勉強が全然できなくてもメガネひとつで博士と呼ばれることができる世界だということだ。そんな世界ではまさに何でもありで、21歳になってもなお音符が読めない少年を、音楽発表会のオルガン担当に立候補させ得たりした。

 

今日の記事⇒11/26, 2018 Dainik jagran「連邦首相は述べた、モーディーが行き来しても、インドは揺るぎなくあり続けよう」

(引用・翻訳のガバガバさはご愛嬌)

「五つの州において選挙の開催が宣言されていて、そこではアヨーッディヤーの争点が激しい。これら全ての間で、インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーは日曜、彼の談話(Maan Ki Baat)を、この問題から完全に遠ざけた。彼は全てのことを政治的な視点で見、そして考える人々にもきっぱりと教えを施し、モーディーが行き来しても、インドは揺るぎなくあり続けよう、と述べた。彼のきっぱりとした指示は、政治から逸れても何かをすることを巡ってであった。彼は、彼の談話は政府の談話ではなく、これは社会と大志を抱くインドの談話であるということをはっきりさせた」

彼は連邦首相として初めて、Maan Ki Baat(邦訳すれば心の内)という名のプログラムを始め、毎週日曜日、ラジオ番組を通して彼の意見やこれからしたいと考える政策について話している。連邦首相の考えを直接知ることが出来るとあって、好評のプログラムだ。

アヨーッディヤーの問題というのは、ざっくり言えばヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の争いのこと。ヒンドゥー教徒がモスクを壊したことが始まりで、あとは大体想像の通り。

「インド連邦首相ナレーンドラ・モーディーは、日曜の彼の談話の五十番目のエピソードの中で、一つの質問に返答しながら、インドの本質的な生命は政治そのものにあるのではない、と述べた。インドの本質的な生命は国の力でもなく、それは社会の処世にあり、社会の力である。社会には暮らしの何千もの側面があって、それらの中のひとつに政治があると彼は述べる。政治がすべてになってしまったら、政治は健全な社会にとって良くないシステムとなってしまうということだ」

日本では宗教もそれほど重要視されてはおらず、多種多様な文化といってもたかが知れているから理解しがたいが、アヨーッディヤーの件からこれを解釈すれば、彼はヒンドゥー教的与党BJPの長という立場であり、与党である以上政治ではヒンドゥー教の数的優位性が見えるが、これがすべてではなく、つまり与党も野党もそれを包括する政治すら生活の一部分にすぎず、宗教、言語それこそ多種多様なすべての生活を認めるべきだということか。

「時々、政治的な出来事と政治家は、社会の他の様式や他の人生目標が圧されてしまうほど支配的になってしまっているが、インドのような国の明るい未来のために、人々が対等の様式と人生目標に対してふさわしい地位を得るようなこと、これが私たちすべての集団としての責務なのである」

 

その日のMaan Ki Baatで述べたこととは。

「彼は、家族の大人と子供の間で心を開いて行う会話で出てくる欠陥を巡っての憂慮を知らしめ、今この会話はただ勉学、しつけ、そしてこうすべき、こうすべきではないということまでに限られ続けてしまっていると述べた。彼は、幾人かは青年たちの中には落ち着きがなくなっていると述べるが、彼らには無駄にする時間もないのだと考える、と述べる」

当たり障りなすぎ。いいやつかよ。

 

「連邦首相ナレーンドラ・モーディーは、2014年10月は始められた連邦首相談話(Maan Ki Baat)を言及しながら、時々談話は馬鹿にされたりもするが、私の心にはいつも13億人の国民が居続けていると述べる。そして彼は、この間にスワッチ・バーラトとSelfie with daughter運動を挙げ、如何様にして談話で述べられたこの話題が全インドに広まったかを述べた」

「連邦首相ナレーンドラ・モーディーは、私たちの文化は不滅だと述べた。談話で表に立った13億人の国民たちの小さなこれらの物語はいつも生き続ける」

「ある質問の返答において連邦首相ナレーンドラ・モーディーは、談話を始めるとき、これにおいて政治はないように、政府の称賛が無いように、そしてどこにもモーディーがないように、と決めたのだと述べる。私のこの決意を守るために、何より大きな支えと励ましをあなた方すべてから得たと述べ、モーディーはこの間に、核実験とヒマーチャル旅程に関わる、あるテーマについても共有したのであった」

談話に政治がないように、ということはこのプログラム自体が政治戦略と見れば理解し難いが、与党の長としての自画自賛をしないという決意は純粋にすごくて、まさにジ・大人だ。ここでビバ・ヒンドゥー教!悪いのは全部イスラーム教だ!インドが嫌いなら出ていけば良い!と叫べたらどんなにいいだろう。ヒンドゥー教徒はインドの多数派を占める。上手くいくかもしれないし、連邦首相に長い間就けるかもしれない。BJP政権になって様々なプロジェクトが前に進められるようになった。毎週日曜日の談話でこれをアピールすればもっともっと支持率は上がるかもしれない。体裁、常識、心証、戦略。色々な事象に囲まれて言えないことも、できないこともある。自分を押し殺す。全体を見て、その上でどうするか考えることが、インドを良くするために考える、ということだ。

f:id:yhkDELHI:20181128203346j:plain

小学生にとってリコーダーと鍵盤ハーモニカ以外の楽器で発表会に臨むことは一種のステータスになり得、その割には音楽の授業では個別に立候補を募り、かつじゃんけんで決めるからなおさら緊張の行事だったように思う。今思うと愚の一文字だが、その時はもはや楽器名なんて気にせずすべてに手を挙げていた。じゃんけんに勝つ。楽譜を貰う。そこには電子オルガンと書いてあって、訳も分からぬ音符が紙を埋め尽くしていた。泣きそうになった。

次の日の昼休み、音楽の先生にそれを伝えると、当然ながらなぜ立候補したのか怒られ、もう変えることはできないから、といって右手だけで弾ける楽譜を貰った。その楽譜には音符がソとラしかなくて、いなくてもわからないレベルだということは小学生の目にも一目瞭然だった。

 

発表会の日。六時間目に発表会があって、五時間目は授業参観だったが、心はずっと晴れなかった。社会の時間、憂鬱になりながら右手の窓越しに父母の塊を見ていると、両親が並んでこちらを見ているのがわかった。目が合うと母は手を振って笑い、父も腕を組んだまま笑った。目を逸らした。小学生でも抱く恥ずかしさというより、これから起こることを考えたからだ。

発表会はステージに大多数のリコーダー勢と鍵盤ハーモニカ勢が並び、左手に数台の電子オルガンと打楽器。自分以外は意気揚々と両手で弾いていた。自分の左手は置いているだけで、観客の方には目を向けず、必要もない楽譜を見ていた。いつの間にか演奏は終わった。単純極まりないソとラの連続ですら2、3か所間違えた自分の演奏なんかには誰も気づかず、親だから皆拍手していたし、家に帰ると、両親はすごかったね、いつ練習したのと褒めた。俺は昼休み友達と、と言った。ずっと下を見ていた。俺以外の電子オルガンは皆女の子で、一緒に練習なんてできっこなかったからだ。

 

全体を考えるということ。自分の立ち位置を考えるということと、誰かの立ち位置を考えるということ。適材適所。自分より適した人材がオルガンをやるべきだった。皆の利益を考えて学校という小さな社会ですら良くしようと考えられなかった。小学生のことで、良いとか悪いとかいう問題ではない。ただ、子供だったということだ。

否が応でも適材適所を求められる大人。全体を見ることを求められる大人。選択の余地がなくなってしまうし、言動も縛られるからこそ悲しい気もするが、黒歴史を生み出しづらいことを救いに歳を取りたい。あと2年は恥の多い人生を送ろうと思う。

 

(元記事:https://www.jagran.com/politics/national-prime-minister-said-that-modi-will-come-and-go-but-country-will-remain-firm-18680935.html