インドって東南アジア?

デリー大学留学中。ヒンディー語の能力向上、インドを知り、自分を見直すためのTHE自己満。見たくない人は見なくて結構。

「スピリチュアル」

後ろで音が聞こえる車に抜かれるまでにあそこの電柱に辿り着けたら良い大学に受かる。高校三年でも、そんな年甲斐のないことを考えて学校から家に向かっていた。余裕で電柱に着いてしまうと効果が無い気がして、次の挑戦では良い大学に受かる基準を三個先の電柱とかにしてみると、二個目の電柱で抜かれたりして、二個目だからまあまあの大学しか受からないな、と沈んでみたりするけれど、結局俺の志望校はまあまあの大学だったわ、と思い返したりして結局じゃあまあいいや、となったりしているうちに家に着いていた。

 

中学三年生のときで、受験が始まる何日か前に初詣で凶のおみくじを引いたとき、俺の受験は終わったと思った。「願望 叶わず」。それを家族に見せると、おみくじなんて関係ないよ、全部大吉をいれておけばいいのに神社は余計なことをする、と口々に自分の代わりに少し怒り、完全に自分の味方をした。引いておいで、と渡した百円を後悔しているようにも思えて、なぜか自分が不甲斐なく感じていた。

よし帰ろう、と父が言ったとき、それを祖父が制して、大吉が出るまで引いておいで、おみくじはそういうものだ、と笑い、千円を渡した。凶がまた二回出て、泣きそうになって人混みの向こうの家族を見たら、みんな心配そうにこっちを見ていた。俺より泣きそうにも見えた。俺は喜んだふりをして出た、出たと言って、凶をおみくじの群れに結んだ。その年の受験はひとつも失敗しなかった。

 

今日の記事⇒12/5, 2018 Dainik jagran「駐車場と建造物の関係はあなたの安全に深く根差す」

(全文・ガバガバ翻訳)

「家に駐車場を作ろうとするとき、常に家の北西の角に駐車場を作るべきである。この決まりは、車両を一番長い時間置いておくその場所にとって特別に必要なのである。家の南西の角に駐車場を作ることは避けるべきだ。車両を、度々長い間この方角のガレージに止めておかなければならなかったら、すぐに状況が悪くなり始めるだろうという考えだ。小さな車両のためには駐車場は北東方向に作らせ得る。もし北側に場所がなければ、南東方向も選択し得る。もしその方角に置く場合、駐車をするとき、車両の前方部分を南方向に向けるべきではない。さもなければ、その車両の持ち主たちは、商売や活動の分野で苦しみに立ち向かわなければならないこととなる」

「市場など野外での駐車で気を付けるべきこと。街での気ままな駐車は間違いなく大きな問題であるが、これにも注意を怠ってはいけない。建造物の観点から、車両の持ち主と運転手にとって重大な結果の原因となり得るのである。建造物は地・水・火・風・空の五大要素に基づき、これらは誰にとってでも、建造物とその安全、成功にかなり支配的であるのである。もし車両を建造物の対角線に止めておくのなら、不運(土星)と月の満ち欠けの結合を得て、害毒な天体の位置を作る。何か仕事を得るために向かっていて、道中車両の気ままに停めようという動きがあるとき、自身の車両を抜け出させるために、また駐車するために困ってしまうし、その観点はいっそう悪化し、緊張状態を作ってしまう。それによって面接は悪化し得るし、また、失敗に直面し得るのだろう」

「これらにも注意をしよう。スクーターやバイク、自転車といった小さな車両は、北東の方角に停めるべきだ。家の角に車両を停めることはやめよう、なぜならこの場所に否定的なエネルギーがたくさんあるからである。一方車や四駆といった大きな車両は、北東の方角に停めるべきではない。建造物に基づいてこのようにすることに経済的な損害の可能性がある。商業人は、車両の前部分を北側の方向にして、駐車するべきである。商売をする車両の前部分は東の方向に置くべきである、それによって商売をする助けを得られる」

毎回訳している記事にはジャンルがついていて、経済、新聞、国内、海外などと新聞にあるべきジャンルが並ぶのだが、今回の記事はスピリチュアルというジャンルだった。スポーツ紙でもないのに堅苦しくこんな記事が載るインドはやはり面白い。宗教というより風水のようなものなのだろうか、宗教の名前などは出てこない。後々参考にできるように、以下にまとめてみる。

(家に駐車場を作るとき)

基本的には北西方向、小さな車両であれば北東方向でもよい。どうしても北方向に作れない場合は南東方向でもよいが、車両の前を南に向けなければいけない。

(野外で駐車するとき)

建造物の対角線上には駐車してはいけない。

(家に駐車するとき)

家の角に停めてはいけない。商業人は自車を北側に向け、商業車を東側に向けると良い。

f:id:yhkDELHI:20181210233514j:plain
凶でも志望校に受かったのだから、おみくじなんて関係ないなんて言うつもりはまったくなく、凶が出たからこそ、奮起できて合格できたのだ、要は気の持ちよう、なんて凶ベテランの言い分を言うつもりも毛頭ない。第一希望だった男子高校に落ちていたら、共学でもっと楽しい高校生活が送れたかもしれない。そうであるなら、先述の凶は正しいということだ。第一希望だったまあまあ大学に落ちていたら、違ったまあまあ大学でもっと輝けたのか。そうであるなら、三本目の電柱がそのまあまあ大学だったということだ。

受かることが幸か不幸か、それは入ってから決まることなのに、そこまでおみくじや願掛けを引きずることはほとんどなかったことを不思議に思う歳になった。やっと大人になったということなのかもしれない。今になって、時々、自分の他の運命を想像する。あのとき凶のせいだと思っていたことが、実は自分にとって良いことを起こしていたことはないか。あのとき吉だったせいだ、やったと喜んだことが、後々とてつもない不幸を生んだことはないか。

今年のおみくじも凶で、その通り今年一年は良いことがほとんど起きちゃいない。ただそれが、後々幸運につながったなと思える日が来ればいい。それはこれから何が起こるかで決まり、何を起こすかで変わるといい。

 

それにしても、祖父のおみくじはそういうものだ、という言葉は今でも引っかかる。どういうものなのか、未だにわからない。伏線ではなく、ただの優しさだったということか。

 

(元記事:https://www.jagran.com/spiritual/religion-know-about-connection-of-vastu-and-vehicle-parking-18717062.html