インドって東南アジア?

デリー大学留学中。ヒンディー語の能力向上、インドを知り、自分を見直すためのTHE自己満。見たくない人は見なくて結構。

「始めるか始まらないか」

卵が先か鶏が先か分からなかったけれど、楽器屋に行った。特定出来ない原因の端緒はこの場合、自分の髪に変なパーマをあててみたという事実と、タブラに興味を持ったという事実で、タブラに興味を持ったことがU-zhaanみたいなパーマをあてさせたのではないような気もしたが、では変なパーマをかけたからこそタブラに手を出すのかというと、そうではないようだったから、もしかすると、ただU-zhaanが間に立ちはだかるだけで、この二つの事実と楽器屋に因果関係は無いのかもしれなかった。

事前に調べた楽器屋に入ると誰もいなくて、古いショーウインドーにシタールがいくつか飾ってあった。その下には音の出し方すら想像できない変な箱みたいな楽器があった。奥に進むと生身の楽器が置いてあって、やや古びてはいるが画像検索しておいたタブラもそこにあった。辺りに人がいないことを良いことにぽこぽこ叩いてみたけれど、YouTubeで見たような音は全く出なかった。

気付いたら後ろに店主らしきおじさんがいて、冷やかしお断り、的な、そのくせ既に冷たい顔をしているように見えたから何も言えなかった。事前に検索しておいた、これどこで習えますか、の完璧なヒンディー語訳を言うことを小さく縮んだ心臓が阻んで、代わりに汚らしい照れ笑いを出させていた。すり抜けるように外に出たら、自分を店に送ったオートの運転手がまだいたから、駅まで、とだけ言った。寒い風が目を乾かし、携帯に目を落とさせる。タブラ教室を見つけ、にこにこ練習している未来の自分を想像して、せっせと検索作業をした昨日の自分に顔向けができない気がした。検索エンジンに単語を打ち込む昨日の自分が、笑っていた。昨日のことなのに、なぜかセピア色の宇宙にある。

 

今日の記事⇒1/30, 2019 Daink jagran「工事が始まらないことに対して選挙ボイコットの脅し文句」

(ガバガバ翻訳)

「Community Development Block(行政単位の一。いくつかのGram Panchayatから成ったりして、Division、Districtの次、Gram Panchayatの前の大きさの行政単位で、農村部発展のため専門家によって支えられていたりするとかしないとか)であるバーラーコートの村議会は、ラーワル村の村人たちが利用する道を巡って怒りを燃え上がらせている。村人たちは、もし直ちに道の工事が始まらないようであれば、来たる下院議員選挙をボイコットするだろうと述べた」

「地域の村人たち(本文では8人名前が挙がっているが省略)は、2013年の雨季の間、タリー村からラーワル村を繋ぐ自動車道の一部が消えてしまったと言う。そのときから6年間が過ぎようとしているが、今まで誰も村のために重い腰を上げることはない。村人たちが言うには、道が壊れたことを巡って、彼らは副県行政長官と面会し、彼はパトワーリー(記録・会計事務職員)とタフシールダール(群徴税官)に検査するよう述べたにも関わらず、であるということだ。道が無いせいで、村人たちは17キロも余分な道のりを通過しなくてはならない。時間と共に金銭的にもひどい目にあっているのである。これに関しては、村人たちによって何回か公共建設庁に知らされた。しかしいい加減な返事をして村人たちは退けられてきている。こうしてとうとう村人たちの堪忍袋の緒が切れていったのであった。村人たちは声を合わせて、直ちに工事が始められなければ来る下院議員選挙におけるこの村での投票をボイコットすると述べた」

手続きが始まらないのはインドでは日常茶飯事で、だからといってみんなじゃあしょうがない、となるわけではないのが厄介なところで、需要は日本人以上に早急さを求めるくせに、供給が牛より遅いからこういうことが起きる。直談判を「始める」のがどんなに早くても、供給側が公人だとクソ同然なので行動を起こすのを「始めない」となれば、全体では何も「始まらない」のである。もうほんとインド万歳。

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出来ない姿や間違える姿を見せることが怖くなり始めると、当然新しいことを始める姿を見せることも怖くなるけれど、これは皆そうなのか、自分だけなのかは分からないし、では自分だけだとしたら、自分がいつからそうなってしまったのかにも全く見当がつかない。

小学生になると、表紙が眩く輝くデルトラクエストに魅了され、やや眩さに欠けるダレンシャンにシフトした後は本が好きになった。元来気持ち悪いから、内容だけではなくて、文字のフォントをも真似て、机とか教科書とかに書くようになった。こんなに本が好きな自分だから、将来は作家になるとどこか思い込んでいた節があって、時間が空くと曽祖父のダイアリーの半分を占めたメモ部門にほぼデルトラクエストで出来た自分の世界をせっせと描写していた。処女作は多分小学一年生のときで、今でも題名を覚えている。自分の中に広がったデルトラクエストの世界を書いたつもりだったけれど、今思えばそれは完全にただの写しだったのかもしれない。弟は今でも、あれは面白かったよと言うときがあるけれど、小学五年生の時に俺が思い付きで作った自作のカードゲームパックをたった一人、百円で買ってくれた優しさを俺は忘れていないから、その信憑性は微塵もないとわかっていて、だとするとその時の自分はまさに厚顔無恥の、負ける気配を察しない佐村河内守。ただ、その頃の、2003年の小さな佐村河内には、新しい世界が開けたように思えていたのだ。

今その模倣本を読んだら思わず笑ってしまうかもしれないと思うが、それと同時に泣いてしまうかもしれないとも思った。かつて自分にあった何か大きな力が、消えてしまったような焦燥感が大きすぎるほどに押し寄せる気がしていた。佐村河内でいることの善悪ではなく、新しい事を始めることを周りに見せるという善悪の話でもない。そもそも善悪で測れる尺度はそこには無い。ただ消えてしまったことのみに、感情が動く。

オートが駅について、電車に乗る。自宅に帰るまでずっと、シャッフルを忘れたイヤホンには何度もマイケルジャクソンのベンが流れていた。そんなことを考えていたから、いつも無駄に出てくる、これはジャパンエディションの何曲目でしょう、という司会者が、今日は息をひそめていた。

あれから一週間が経てば、また懲りずにタブラ教室を探すのだろう。何を始めるにも臆病で、無駄なプライドを有する惨めな自分を、画面に見るのだろう。それはある種摂理で、自分にはどうしようもない悲しさがある。いつだったか弟に、お前の思い出話は全部悲しく聞こえるな、と言われた。そうかもしれないと思った。今もベンを聞きながらこれを書いている。

 

(元記事:https://www.jagran.com/uttarakhand/champawat-threat-of-election-boycott-if-work-is-not-started-18904506.html