インドって東南アジア?

デリー大学留学中。ヒンディー語の能力向上、インドを知り、自分を見直すためのTHE自己満。見たくない人は見なくて結構。

「説得力と引き換えに涙の経験を」

人の心を動かすのに同情と共感は強いと信じているが、その裏を返せば、同時に、どちらかが無ければ、多くの場合人を動かすまでには至らないことを認識しているということで、では自分がその原則に則った言動を日々心掛けているかというと、そうではない。主張が長くなると同情や共感が弱まるが、それらの経験はあくまで主張を助けるものだから、経験が複雑だと論旨がつかめなくなる。面倒くさがってこの平衡を掴もうとしないから、未だに俺の主張は中学生レベルなのである。

 

弁論も然り、主張が経験で支えられたもので、経験の内容、そしてその平衡性が主張の説得力を大きく左右する。先日、インド人の日本語弁論大会を見に行ったが、その多くが、共感や同情を誘う経験を携えていた。主張は多様でも、それはもう万国共通で、やはり共感や同情には価値があるのである。大好きだった彼女にふられた。部活でハブられた。学校でいじめられて、不登校になった。可哀想に。その感情で、主張を受け入れる準備は整う。

 

今日の記事⇒10/25, 2018 Dainik jagran「デリー大学教授は述べた、イスラーム原理によればテロリズムは正当ではない」

(引用・だいぶガバガバ翻訳)

「マッディヤ・プラデーシュ州のインドールで、デリー大学の教授サイヤド・パザル・ウッラーフ・チシュターは、人々がそれぞれの宗教を理解しておらず、それらに反してしまっている、と述べる。今日、子供たちはイスラーム教について、GoogleやWhatsAppから知識を得ている」

「イスラーム教のもうひとつの宗派のためにいくつの場所があるのかすら、人々は知らない。実はテロリズムはイスラーム原理の考えにも全く即しておらず、そしてジハードの名のもとに人々が行っている殺人といった悪行も、誤りなのである」

イスラーム国が、「イスラームの教義に基づいて」という名目で数々のテロ行為を行っていることは日本のインド専攻の学生でも知っている。どう考えても教義なら仕方ない、の範囲を超えていることは明らかな気がするが、この実は…的なテンションは皮肉か。

「チシュターは、イスラーム教、心の落ち着きとテロリズムのテーマについて開催された講演において呼びかけていた。彼は、すべての宗教には、地球全体が家族であるという精神とともにあろうとするような人々もいる、と述べた。コーランはすべての人々の利益のためにあって、それはコーランで300回より多く、人々をめぐって呼びかけられているところにも表れている。イスラーム教徒をめぐっては、17回言及されている」

「すべての宗教の人々は、宗教間の隔たりと誤解を終わらせ得るために、それぞれについて知った方が良い。力ずくで誰かに何かを押し付けることのないように。これらはもはや宗教ではない。あなたには、あなた自身の宗教を信じ続けても、他の宗教を知る努力をしてほしい」

多くの宗教で神は母で、世界は家族。家族ならば殺しを行うなんてもっての他、お互いを知ることは当たり前で、記事としては綺麗な締め方だと思うし、作文としても素晴らしい手堅さではないかと思う。ただこの記事はいつもと違い、主張が含む記事で、啓発的な意味を含む。インド人の姿勢を変えることを目的とするなら、この記事では目的は果たされないように思う。イスラーム国のメンバーでなくして、世界で、またひいてはインドで、誰がイスラーム国のテロリズムを正当だと感じているのか。この行動が誤っていることは、もう皆わかっていることである。

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2001年、同時多発テロ事件で、多くの人が死んだこと。イスラーム国が起こすテロ行為で、今も多くの人が死んでいること。その一方で、それらの行動に携わっていなくても、イスラーム教徒であるだけで迫害されたり、殺されたりしたこと。死んだ人への同情の余地、インドのイスラーム教徒だからこそわかる、迫害されている世界中のイスラーム教徒への共感の余地はいたるところに転がっていて、それは立派に主張を助け得るのに、「間違っている」という専門家の言葉をここぞと材料にするのは有効ではない。普段記事でだらだら垂れ流す実害たちのような、具体的な経験に向き合う過程と主張が合わさってこそ、主張が輝くのである。

 

大好きだった彼女にふられた青年は、英語が話せないことでふられたという事実に向き合い、一生懸命英語を勉強して、学校で1位の成績を取ったそうである。部活でハブにされた女の子は、一生懸命ひとりで練習して、実力で仲間の信頼を勝ち取ったそうである。学校でいじめられて不登校になった女の子は、世界で最も怖い武器は暴力でもなく、兵器でもなく、言葉だということに気付いたその経験から、今それを伝える活動を行っているそうである。

 

どんなに面白い言葉でも、何回も笑うことはできないのに、どうしてひとつのことには苦しみ続けるのか。これも弁論にあった言葉だが、つらい経験に向き合うことを後押しする良い主張だ。ここまで偉そうに書いた自分も、主張と経験との平衡性がとれていないどころか、今もつらい経験に向き合うことを恐れているひとりである。もうそろそろ自分も前を向くことにしよう。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-du-professor-says-according-to-islamic-law-terrorism-is-not-right-18571429.html