インドって東南アジア?

デリー大学留学中。ヒンディー語の能力向上、インドを知り、自分を見直すためのTHE自己満。見たくない人は見なくて結構。

「日本に帰った両親への寂しさが回想させる自己犠牲」

お盆には律儀にいそいそと墓参りをし、正月にはいそいそと初詣に出かけ、クリスマスには美味しいケーキをいそいそと買いに行く宗教的浮気性の父のもとに生まれたから、ひとつの宗教に捧げる敬虔な信心深さとは縁遠く育った。自分が小さいとき、父は苔の生えた墓石を毎年懲りずにごしごしこすりながら、神様なんていないかもしれないけれど、気づいたときにお墓を掃除しようという精神が大事なんだよ、と胡散臭い宗教家のようなことをよく言っていた。

 

自分と弟が高3の秋を迎えたとき、そんな父がジョギングを始めた。そこまで太っていないのにな、と思ったけれど、何も言わなかった。弟が推薦入試をひとつ失敗し、俺も受験が近づいてきてストレスが溜まってくると、毎日家族のライングループに貼られる、父のジョギング距離のスクリーンショットと、嬉しそうな報告に2人とも返信しなくなった。丁度2人の受験が終わったときくらいに、運動不足気味だった父の足は悲鳴を上げ、疲労骨折と診断された。でも父はなぜか満足げに見えた。

 

今日の記事⇒10/21, 2018 Dainik jagran「100時間のバンダールで世界記録を作る挑戦の中にあるインドール」

(引用・毎度ガバガバ翻訳)

「マッディヤ・プラデーシュ州のインドールには、100時間の特別なサーイー・バンダールの2日目である土曜日の夜までに、5万人より多くの信者が到着した。サーイー・バーバーを祀る寺で、サーイー・バーバーの100回忌目の日に、この100時間連続のバンダールが始まったのであった。ゴールデンブック・オブ・ワールドレコーズのチームはこのバンダールの記録をしているところである。ここでは、4時間ごとに出される食べ物のメニューが変えられている。日曜日には、このカレーに南インド料理が盛られる予定だ」

 

バンダールは、インドで、信者や行者たちに食事を振る舞う、炊き出しのようなもののことを言う。サーイー・バーバーは、ヒンドゥー教のヨーガ行者でもあり、イスラーム教のファキールという修行僧でもあった宗教指導者であり、宗教を超えた「聖者」であって、数多くの信者を持つ。日本でもよくあるような挑戦だが、ギネスを狙うのではなく、これはギネスの宗教版のようなゴールデンブックの記録を狙っている。

 

「実行委員会は、10月23日の夕方6時に、世界で1番大きなバンダールの勲章は、この催しに与えられるだろう、と述べる。バンダールにおいては、食事を盛り、食器をきれいにするためにも信者の中に競争がある。実行委員長スレーシュ・ヤーダヴと、報道担当者のハリー・アグラワールは、バンダールを作り出したサーイーラム・カセーラーの指導の中で、今回は42万1000人よりも多くの信者がここで食べ物の恩恵を受ける予定だという」

「サーイー・バーバーの命日では、4年前からバンダールが開催されているところだ。今回はじめて100時間のバンダールが予定されている。崇拝・奉仕委員会の委員長モーハンラール・ソーニーによれば、バンダールではいつもローティーとともにキチュリー、ベーサン、マッカンバラー、ハルワー(注・いずれもインド料理)が盛られている。10月21日の朝10時から、タミル語圏コミュニティの協力と、組織の努力によってバンダールに、南インド料理が盛られる予定だ」

このバンダールが行われるインドールは北インドの平野部にあるが、南インドの料理が出されるということには、サーイー・バーバーやバンダールの規模の大きさが現れているのだろうか。100時間、42万人の参加者。敬虔な信者の敬虔な働きぶりが伺える。食べるだけの参加者はいざ知らず、これを運営するのはすべて信者だからだ。

f:id:yhkDELHI:20181023212659j:plain

受験のストレスで、父のジョギング距離のスクリーンショットを見なくなったし、父の走っていたコースなんて知る由もなかったが、自分達が勉強を始めると同時に、父は10キロ先の地蔵を折り返し地点に定めて走り、自分達の受験の成功を毎日祈っていたのだと後で聞いた。子の受験に父が協力できるのは神頼みくらいだと、神様なんていないかもしれない、と言っていたはずの父も、会社から帰ると夜遅くに静かに家を出ていたのだった。

弟が推薦入試をひとつ失敗した夜。父は地蔵に走り、地蔵に向かって怒った。

こんなに毎日祈っているのに、どうしてあんなに頑張っていたやつを合格させてくれないんだ。やっぱり神様なんていないんじゃないか。

息子の頑張りを信じて、物言わぬ地蔵に怒る父を想像すると心が痛む。しかし弟が再び次の日から勉強を始めると、父もまた次の日から同じように走り始めた。昨日は怒ってすまなかった、自分もまた頑張って毎日祈りに来るから、今度こそは合格させてやってください、と祈るために。

自分たちが合格すると同じくらいに、父は疲労骨折をした。ほとんど運動をしなかったのに、急に毎日20キロ走るようになったのだから当たり前のことだった。お供えをするみたいに、何かを犠牲にしなければ、やっぱり願いは叶わないんだなあ、と父は嬉しそうに笑った。その日まで、父は毎日地蔵に祈るために走りに出ていたことを隠していて、その日から、父は走るのをやめた。

 

神様がいるかいないかは誰にもわからない。でもどの宗教だって、ある程度の自己犠牲を要求するものである。この記事のバンダールも、配膳・掃除をするのは信者だ。シク教の寺院であるグルドワーラーでは、信者が靴の管理をしたり、食事を振る舞ったりする。仏教寺院のお賽銭やお布施、イスラーム教のザカートという喜捨。その大きさはどうあれ、どれもみんな自己犠牲で、その犠牲が誰かを生かしている。自己犠牲は強い利己心があってはできないと思うから、利己心を捨てる過程が必要で、その過程こそが人を良くし、それが周りも良くし、願いが叶ったり、成功が手に入ったりするのではないかと思う。これが、「神様が見ている」ということなのではないかと思うのである。

 

ひたすらお金を使うだけの息子に、毎年正月もお賽銭を渡した。冬休みを迎えてゲームばかりしている息子に、疲れた仕事帰り、ケーキとプレゼントを買って、手紙も添えて、サンタクロースの手柄にした。息子がキャッチボールをするのを横目に、息子を含む後代のために汗水垂らして墓石を磨いた。受験を控える息子のために、面倒くさくても、雨の日も、雪の日も、走ってお祈りに行った。

 

父の、犠牲を伴う願いが自分達に向けられていたからこそ、今の自分がある。何教徒でもない父だけれど、ほんとうに神様が見ていると良い。そろそろ、俺が自分を犠牲にする歳になる。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-indore-in-the-exercise-of-a-world-record-for-100-hours-of-bhandara-18554124.html

「ジャイアンは映画では良い奴」

「カキーン!」

などと鍵括弧で一行目を埋める小学生お決まりの作文のスタートは今でもあまり好きではない。先生が作文に工夫を求めると、小学生はまず会話文や音で一行目を埋めがちだが、これはこすりにこすられた工夫の模倣であって、楽しかったです、で作文を締めるのと同程度ありふれている表現であることに彼らは気付きやしない。かく言う自分も、ありふれたレールの上を生きる中でこの駅を通過したひとりではあるが、工夫を強いて逆に個性を殺すなら、その教育は間違っていたと今になって思う。

 

自分がつまらない人間に成長したように、小説でもドラマでも、お決まりの展開は決まって飽きを誘うものだ。しかし唯一、当初敵だった奴が味方となり、共通の敵に立ち向かうお決まりは滾るものがありやしないか、と思っている。「金色のガッシュベル」でいえばガッシュとドラコ、「ドラゴンボール」では悟空とベジータ、あくまで休みに公開される映画の中だけだが、「ドラえもん」ののび太とジャイアンの共闘もこのお決まりに則る。話の展開よりもはるかに小さな部分であるはずの設定の裏切りが、お決まりの展開の飽きに勝るのである。

 

今日の記事⇒10/20, 2018 Dainik jagran「中国においてプラマプトラ川の岸辺に作られた湖、インドにおいては溢れる危険」

(引用・大体わかると思うけどガバガバ翻訳)

「中国におけるブラマプトラ川の岸辺で起こった地滑りによって川の流れが止められ、そしてその場所でかなり大きな湖が作られてしまった。この湖の自然に作られた側壁はいつか壊れ得るし、大量の水がアルナーチャル・プラデーシュ州の国境付近の地域に惨害をもたらし得る」

 

ブラマプトラ川は、インドと中国に渡って流れる川のことで、アルナーチャル・プラデーシュ州は中国との国境の州にあたる。中国において地滑りが起きて流域付近に湖を作り、その水が溢れた場合、インドのアルナーチャル・プラデーシュ州に影響を及ぼしうるということである。重要なのは、今インドと中国は領土問題をめぐってかなり熾烈な争いを続けているところだということ。日本と中国との対立以上の対立が、ここにはある。

 

「インド外務省のスポークスマン、ラヴィーシュ・クマールは、中印両国の役人が密に連絡を取り合っていると述べる。両国当局の最上級の協力関係が作られている。水資源省の高官によれば、中国の湖からの水漏れが始まっていて、それはすぐに太い流れになり得るという。溢れた水は、金曜日の夜にもインドに達する恐れがある」

「中国外交公館のスポークスマンであるジー・ローングは、中国はインドと共に緊急の知らせを分かつシステムを活用している、と述べる。水が溢れ出ていったら、インドの高官たちに知らせが届くだろう。中国における地滑りの件は、水曜日の朝にもチベットのミリン地域のジヤーラー村近くまで達する見込みだ」

「インドの高官たちによれば、湖ができた後、何時間か後に中国はインドに対しこの知らせを通達してきたという。時間が過ぎるとともに、この湖の規模は増えていき、障害を取り除くことによって溢れる危険性も増大する。溢れた水は金曜日の夜にもインド国境付近の地域まで入り得る。来る水の量とその速さは毎時間観察されている」

おお、協力している。中国とインドは領土問題で揉めているとはいえ、どちらも立派な国家で、一旦それは置いておかなければ大変なことになってしまうから仕方がない。当然なことだけれど、普段対立が見えているからこそ、この協力に価値があるように思えるし、滾るのだと思う。

f:id:yhkDELHI:20181022011634j:plain

ただお決まりの展開では、共闘して共通の敵を倒すと、かつて敵だった奴との間に友情が芽生えていて、なんだかんだ仲が良い状態になるものだが、実際の状況でもそうなるとは考えにくい。所詮物語は物語、現実では味方とはなりやしない。魔界の王になるよりも、神龍を呼び出すよりも、ひみつ道具で世界を救うよりも、現実問題は難しく、お決まりもないから、模倣もない。現実問題では展開よりも各々の設定が複雑すぎて、その裏切りすら容易に作り出せない。どうすれば正解で、誰が勝ちなのか誰もわからないから、工夫を求められないし、飽きが来ないことだけが救いだが、だからといって現実は面白い、と結論付けるお決まりを踏みたくないし、そう言えるほど自分は世界を知っているわけではない。

 

物語は偉大だ。良い物語では、ひとつひとつの決断に意味があって、後々必ず影響を及ぼす。無駄が省かれているから、無駄な行動がひとつもなく、失敗経験も必ず糧になる。結局要約すればありふれた展開でも、ちりばめられた裏切りや工夫が物語を彩る。現実もそうなれば良い。世界を粋な展開で満たしてくれれば良い。粋な展開。最近であれば金正恩は良い線いっている。

 

そういえば映画のドラえもんを見た後、アニメのドラえもんを見るとジャイアンがまた悪い奴になっていて、幻滅したものである。インドと中国との間の現実もそうならなければ良い。どっちがジャイアンかは、この場では言及を避ける。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-in-china-artificial-lake-made-along-siang-river-flood-danger-in-india-18550802.html

「私が死んでも誰も悲しまない」

ドラマでも映画でも、「私が死んでも誰も悲しまない」という台詞は、「そんなことない、私は悲しい」という返答を狙ったものでほぼ間違いないから、その不貞腐れたテンプレートの台詞には真意が込められていない。けれど、その期待通りの返答はいつだって本意だと思う。たとえよく知らない人でも、この世からいなくなるのは寂しいものだからだ。

知り合いが死ぬ夢をよく見る。なんでもアリの夢の中でも、悲しいという感情があることは不思議な訳だが、その悲しみはもう会えないという喪失感と同時に、後悔由来であることが多い。母が死んだ夢を見たとき思い返した後悔は、小6で母と弟とお台場ジョイポリスに行ったとき、恥ずかしさから、プリクラを取りたがる母を拒んだこと。母は帰り道、プリクラ取りたかったな、とポツリ言った。こんな小さな後悔が心に引っ掛かり続けていたことに、夢で初めて気づいたりする。かくして、起床後はその人に対する接し方が優しくなったりするのである。

 

今日の記事⇒10/20, 2018 Dainik jagran「BJPの議員ボーラー・プラサード・シンの死去、連邦首相モーディーは哀悼の意を表す」

(引用、てか全文、毎度毎度ガバガバ翻訳)

「ビハール州のベーグサラーエからのBJPの議員、ボーラー・プラサード・シンの死去は金曜日の夜9時半ほどにデリーのラーム・マノーハル・ローヒヤー病院で起きた。彼は79歳で、しばらく病を患っていた。彼の死に対し、連邦首相ナレーンドラ・モーディーも含め、数多くの政治家たちは哀悼の意を表した。彼の遺体はしばらくした後にパトナーに移送される予定だ」

「ボーラー・シン議員の死去の後、深夜から彼に哀悼の意を表する人々の行列ができた。そして深夜、連邦大臣のラーダーモーハン・シンは彼のデリーにある住居を出た。連邦首相ナレーンドラ・モーディー、下院議長スミットル・マハージャンも含めた数多くの連邦大臣、国会議員、州議会議員など、数多くの著名人が彼に哀悼の意を表した」

「ソーシャルメディアでも彼に哀悼の意を表する人々が殺到した。連邦首相ナレーンドラ・モーディーは去る夜に自身の哀悼のメッセージにおいて、ビハール州の進歩や社会奉仕における彼の寄与を思い出させた。BJP議員、ボーラー・シンの死去に対し、連邦首相ナレーンドラ・モーディーは悲しんだ。ビハール州の州知事、ラールジー・タンダンも哀悼の意を表した。ジャールカンド州の州首相ラドゥワル・ダースもである」

「ボーラー・シンはインド共産党、国民会議派、全国ローク・ダルにもいた。議員になる前、彼はビハール州における村落発展担当の大臣でもあった。2000年から2005年の間、彼はビハール州の上院議会のスポークスマンでもあった。その後BJPの議員となったのである」

 今日は暗いニュースがトップだった。インド北東部、ビハール州選出議員ボーラー・シンが死去し、インド全土で彼の死を哀悼している。これがトップニュースである以上、偉大な人であることは間違いなさそうだ。貧富の差、農村部と都心部の差の激しいインドにおいて、ビハール州は前者に属し、この開発への尽力は全土の哀悼に値しよう。「実績」は永遠に残るものだ。

f:id:yhkDELHI:20181020204658j:plain

 

誰かの心に思い出を残したことも「実績」のひとつ。高齢になって、子や孫が増えて、愛する対象が増えていっても、思い出という実績は決して消えやしないと信じている。一緒に行った場所、一緒に話したこと、してもらった恩と、してあげた恩返し。今でもにおいや、音楽などで思い返すような思い出が、この先も思い返せると信じている。もしそうであるならば、その人といい思い出を作ることが、その人が死んだ後、後悔由来の悲しみを減らす。

 

母とのプリクラはいつか一緒に撮ってあげようか。いや、まだ無理だわ。

 

(元記事:https://www.jagran.com/bihar/begusarai-bjp-mp-from-begusarai-bhola-prasad-singh-passes-away-18550647.html

「期待は成果か嘘を求める」

野球を見るのも、父とキャッチボールをするのも大好きだったから、小学4年生のとき、地元の少年野球のチームに入れてもらった。でも凡才が入るには小学4年生は遅すぎて、同学年の友達はみんなAチームという上手で、試合をするグループに入っていたのに、自分と弟は、ほとんどが小学1年生から3年生で構成されるBチームに入らざるを得なかった。Aチームの友達と対等だったのは、プロ野球チップスのカード交換の時だけだったと思う。

 

大体日曜日は休みなのだが、試合があると日曜日もあって、試合に出ないBチームもその応援に行かなくてはならなかった。日曜日の弁当を母に頼むときは試合のとき。母もそれはわかっていたけれど、俺も弟も、Bチームだから試合には出ないんだよ、とは言えなかったから、母は試合頑張ったらお腹がすくよ、といって大きなから揚げ入りのおにぎり2つと凍ったアクエリアスをいつも準備してくれていた。少年野球では絶対に出場しないやつの背番号26の背中にかけられる、いってらっしゃい、の後に続く、頑張ってね、という言葉は無為で、今思っても悲しいものだと思う。

 

今日の記事⇒10/12, 2018 Dainik jagran「日本は連邦首相モーディーの“スワッチ・バーラト・キャンペーン”を支持する申し出をした」

(引用・前回書き忘れたけどまたガバガバ翻訳)

「連邦首相ナレーンドラ・モーディーが大望を抱く“スワッチ・バーラト・キャンペーン”は世界中で称賛を得ている。日本もまた、このキャンペーンを称えながら、これに対し支持をする申し出をした。飲料水・衛生省は木曜日、日本の首相である安倍晋三が、スワッチ・バーラト・キャンペーンに対し日本政府として支持する申し出をしたと発表した。連邦首相ナレーンドラ・モーディーはマハートマー・ガーンディー生誕祭の折りに、“スワッチ・バーラト・キャンペーン”を始めていた」

何回も出てくるスワッチ・バーラト・キャンペーン。我らが安倍氏もこのインドの衛生キャンペーンに期待しているということ。おお。

「飲料水・衛生省によって発せられた発表では、文書の声明において、安倍晋三は、日本政府はインドの連邦首相ナレーンドラ・モーディーの指導の下で進められているスワッチ・バーラト・キャンペーンの協力をするだろうと言った、ということである。同時に、安倍晋三はアジアの衛生をめぐって、日本の責任を繰り返し述べ、インドのマハートマー・ガーンディー全国衛生活動の成功を祝った」

「マハートマー・ガーンディー全国衛生会議は、4日間の全国大会であった。それに世界中の衛生担当の大臣と、水、衛生そして健康科学担当の他の政治家も含まれていた。大会では、国内、国外の有識者が参加した。大会の最後は、ガーンディー生誕祭の10月2日に行われたことによって、スワッチ・バーラト記念日という形でも祝われた」

10月2日に書いたように、ガーンディーを立て、スワッチ・バーラト・キャンペーンは行われているが、彼の名前を立ててしっかり会議も行われているということ。安倍晋三がそれをしっていることがまず驚き。というかナイスインド担当の官僚。粋。

「安倍は、『きれいな水を保存すること、そして衛生状態を改善することは全世界の前に共通の課題であり、この活動を前に進めるためにたくさんの国々が協力するだろうことを望む。それぞれの国々の協力の一層を望む』と声明の中で述べた」

いわゆる「きれいな国」代表としての責任だ。日本人として、我々もインドがきれいになることを期待しよう。というか帰る前に早くきれいになってくれ。

でも「期待」というのはかけられると嬉しいけれど、かけすぎたら重荷になる。知らず知らずのうちに「期待」はそれに見合う「成果」を要求するからである。日本は技術を提供しながら、徐々にきれいになっていくのを見守っていこう。日本のような国は、みんな性急な「成果」を見たがるから。

f:id:yhkDELHI:20181014174134j:plain

少年野球の試合の帰り道、大きなから揚げおにぎり2つとアクエリアスを平らげておきながら、あまりにも真っ白なユニフォーム姿がどうしても嫌だった。「期待」と「成果」が釣り合っていないのが一目瞭然だったからだと思う。小学生の思考だ、空き地の砂を腿にこすり付けて、せっかく洗濯してもらったユニフォームを不必要な努力で汚して家に帰った。そしておかえり、という言葉に口をついたのはやはり不必要な嘘だった。

今日最後だけだったけど、代打で試合に出させてもらったよ。守備では初めてフライがとれて、褒めてもらったよ。意外と緊張しなかったな。次はスタメンになれるかもしれないよ。なれたらいいなあ。

父と母はとても嬉しそうな顔をした。大して汚れてもいないのに、わざと意気揚々と風呂に入って、日に焼けただけの体と、外で立っていただけだったという真実を洗い流そうとした。今思ったら少し泣いたかもしれない。

 

モーディーさん、「期待」に応じた「成果」がすぐに出なくたっていい。「成果」の「嘘」は洗い流せやしないし、取り返しがつかないと思うから、つくべきではない。

こんな嘘ですら、もう10年引きずっているのだ。

 

(元記事:https://www.jagran.com/news/national-japan-offers-support-to-pm-narendra-modis-clean-india-initiative-18525372.html

「なぜ」

なぜ、が苦手だ。自分にとっていつもなぜ、は歯痒いものだからだ。世間一般でマイナー言語のヒンディー語を学ぶのはなぜ。毎日10人くらいしか見ていないブログを続けるのはなぜ。なれるわけがないのに、そんな夢を見るのはなぜ。なぜ。なぜ。確かな決意があって始めたことも、正面からなぜ、を突きつけられると上手く言えなかったりして、そして自分の中にある表向きの理由と裏向きの理由に向き合わせられたりして、途端に先が見えなくなってしまう。

今日の記事は、「宗教」というなぜ、にあふれるカテゴリーに関してだが、日本人にはわからない部分が多すぎて、大体知ったかぶりをするか、無知を隠して無視するカテゴリーだ。なぜ、を突きつけやしない。突きつけたってわからないからである。

 

今日の記事⇒10/10,2018 Dainik jagran「内閣の決定:今や政府の監督の中にあるナイミシャーニャ、デーヴィーパータン、ヴィンディヤヴァーシーニーのメーラー」

 

「宗教的聖地の振興と、ヒンドゥー精神のアジェンダを増加させているヨーギー(ウッタル・プラデーシュ)州政府は、重大な決定を下した。ヴィンディヤチャル、デーヴィーパータン、そしてナイミシャーニャといった3つの主要な権威ある祭壇で開かれる歴史的なメーラーは、今やその地方自治体の監督の中で行われるのではなく、ウッタル・プラデーシュ州政府自身の監督下で行う、ということである」

f:id:yhkDELHI:20181012203058j:plain

「パールヴァティー、ヴィンディヤヴァーシーニー、そしてパーテーシュワリーのメーラーにかかる出費の重荷は州政府によって負担される。本年度は、ナイミシャーニャ(パールヴァティー)には600万ルピー、デーヴィーパータン(パーテーシュワリー)には484万4千ルピー、そしてヴィンディヤチャルにおけるメーラー(ヴィンディヤヴァーシーニー)には414万9千ルピーの補助金を与える予定だ」

ヒンドゥー至上主義政策を推し進めるウッタル・プラデーシュ州の州首相ヨーギーは、ヒンドゥー教の宗教行事であるメーラーを州運営として支配下に置き、莫大な補助金を与えることにした。

「ヴィンディヤヴァーシーニー祭壇のメーラーの開催は、今、ヴィンディヤ振興委員及び9つの職務責任者部局によって一緒に行われているが、この運営も県行政長官によってなされるようになる。スレーシュ・カンナーは、主要地域より北で行われるメーラーは、州政府によって行われることになるという。そしてまさに同様な補助金も与えられるという。州政府運営になった後、州政府はこの3つのメーラーにおいて、敬虔な信者たちに対し基本的な便宜を図らせるだろう。州首相ヨーギー・アーディッティヤナートは全県、全国、世界の形で見られるメーラーの適切な体制、開催の成功、そして州運営の宣言をした」

要はヒンドゥー教のメーラーに金を使い、盛大に行おうとすることがヒンドゥー教徒の支持を取り付けることにもつながるのだろう。加えて。

「アラーハーバードのクンブ・メーラーの4つの場所では聖者たちに対して中央は滞在先を建設するだろう。これで5千5百ルピーの出費となる見込みだ。州政府のプラヴァクター・シュリーカント・シャルマーは、メーラーの運営を行う役人は、アタル・アカーラー、アライルにあるサッチャー・バーバー・アシュラム、アロッピ・バーグにあるブラフマーのいるシュリーシャンクラーチャーリエ・アシュラムなどに聖者たちが滞在できるように基本的な滞在先を作るための提案をした」

結局その建物を作る会社やデザインをする会社は州政府によって指定され、そして承認された。とにかくえげつなく金かかる見込みである。日本もいつだって多数派が勝つ社会だけれど、無知な自分にはやはり行き過ぎた「贔屓」にも見えてしまう。これが当たり前になればインド上級者なのだろうか。そうなるのが良いのかはもはやわからない。

 

なぜ広大なウッタル・プラデーシュ州なのに、ヒンドゥー教徒にだけお金を使おうとするの。なぜ他に必要なインフラ整備にお金を使ったりしないの。

なぜ、ただ古くからの言われがあるだけで、田舎で、栄えているわけでもないこれらの場所が聖地なの。

神に祈ったって、別に何もないよ、なぜ寺に人が集まるの。

なぜみんなお金を払うの。

なぜ宗教儀礼をするの。

なぜ宗教を信じるの。

 

なぜ。なぜ。なぜ。調べれば簡単にわかることもある。ただこういうことや、個人的な事柄にはなぜ、を追及しすぎないのが大人だと思う。なぜなら一言、お前の知ったことではないからである。

 

(元記事:https://www.jagran.com/uttar-pradesh/lucknow-city-cabinet-decision-for-several-proposals-18519811.html

「約束は針、契約は金」

守らなければならないもの。例えば、校則。例えば、規則。例えば、法則。例えば、約束。そく、の漢字が違う約束だけは他と違って、結ばれる間が対等な気がして、だからこそ指切りげんまんができるのだと思う。校則を守らないヤンキーも、ダチとの約束は守ったりする。悪を粋がる社会悪でも感じる、不思議な罪悪感が約束にはあるからだ。

悲しいことに、大人になるにつれて約束は契約に名前が変わり、針千本は違約金に形を変えることが多くなる。罪悪感は機能しなくなり、考えつくされた思惑と自己中心的な考えだけが、守らなければならなかったものを破ろうとする。

 

今日の記事⇒10/4, 2018 Dainik jagran「Amrapaliの何千ものマンション購入者たちにとっての吉報、停頓したプロジェクトがやり遂げられるだろう入札」

(引用・今回難しいしガバガバ翻訳MAX)

 

「最高裁は、Amrapali Groupの停頓に陥ったプロジェクトをやり遂げるために、National Building Construction Corporation (NBCC)に対し、一般入札するように、と述べた。この未完成の仕事を期限までに完成させるために、建築業者を選択できるようにするためだ。最高裁判所は、60日以内にNBCCは長引いたプロジェクトの精密なプロジェクトレポートを提出するように、とも述べた」

 

なんのこっちゃわからないでしょう。まず本文の順番を変えて経緯を。

 

Amrapali Groupは、今、自社のほとんどの投資家たちによってマンション建設費用の80%から90%の金額を徴収したところだという。しかし実際の状況は、いくつかのプロジェクトでは投資家がすでに100%のお金を出していたが、7年が過ぎてしまった後も、そのいくつかのプロジェクトの準備は依然出来ていないままだということである。Amrapali Buildingには、NoidaGreater Noida Authorityとともにいくつかの銀行にも多額の負債があるが、そのお金を返せる状況にはない。ある見積もりによれば、4万よりも多くの投資家がAmrapaliの欺瞞の標的であるという。被害者は最高裁以外に望みはない。」

 

これでも理解に難いかもしれない。Amrapali Groupはデリーの建設会社で、マンション建設計画を作成、投資家に投資を募った。彼らから無事お金を得たのだが、なぜかマンションは作れておらず、お金も返すアテがないということ。4万を超える投資家、銀行にお金を返せない大惨事。

なぜマンションは作られなかったのか。

 

「専門家たちによれば、Amrapaliはすべてのプロジェクトを一挙に始めるということで投資家たちを釣って、予約を維持した。一方で、物件の予約は殺到したが、しかし仕事は停滞した、これは投資家からこのプロジェクトのために得たお金を他のプロジェクトに充てたからである。Amrapaliが規則と法を思いのままにし、プロジェクトのお金を他のビジネスをするところの、同グループの会社に充てていたということは困惑する話である。経済が不況である時期の予約の減少は一挙にすべてのプロジェクトにおける仕事を停滞させた」

 

要はお金を集めるだけ集めて、同じグループの他のプロジェクトにあてていたということ。しかも記事によれば虚偽のプランで投資家を釣っていたというからどうしようもない。その後不況が訪れると予約の勢いは停滞。他のプロジェクトに割いたぶん、このプロジェクトは完成されないままになってしまったのである。

f:id:yhkDELHI:20181008190338j:plain

 

A.ミッシュル裁判官とU.U.ラリット裁判官の小法廷は水曜日、Amrapali Company Groupの建築士に対してNBCCと共に協力することを決断するよう言った。Amrapali Groupの建築士たちがNBCCと協力しない場合は、「深刻に受け取られるだろう」、ということである」

「小法廷は、Debt Recovery Tribunal (DRT)の前に行われていた聴聞において、Amrapali Groupのデリーに売られていない物件に対し仕事を始めるように、と言ったのである。これらの物件の鑑定の命令までなされた」

 

結局建設に関しては他社であるNBCC、債務に関してはDRTの尻拭いをうけることに。

この投資家や銀行との「約束破り」の尻拭いを最高裁が指示したこと、そしてこれがインドのトップニュースであることにこの規模の大きさが伺える。指切りげんまんなら、なんと針四千万本規模である。「契約」で良かった。お金で済んで良かった。

 

いつだって契約も約束も、勝手に破るとろくなことになりやしないということ。

約束のそく、が「束」なのは、古代中国において取り決めを忘れないように「束」にしたからだという。取り決めも、みんなが守らなければならないもの。語源も、そして使う漢字も、関係性も違うが、他の「則」の単語と同じく、約束も結局則らなければならないものであることは見えよう。

 

飲み会行けたら行くわ。明日朝起きられたら一限出るわ。金、あとで返すわ。

何回裏切り、そして裏切られたか。破ることに罪悪感がないものだから、これからこういうのは約束と呼ばないことにしよう。社会人になるまでは、約束を破ることに罪悪感があっていい。

 

そういえば先日、インドにいながらにして部活の同期と飲み、爆酔いして記憶をなくす「お約束」をかました。ただこればかりは何の価値もなく、そして何の意味もない約束である。

 

 (元記事:https://www.jagran.com/delhi/new-delhi-city-sc-allows-nbcc-to-float-tenders-for-selecting-builder-for-stalled-amrapali-projects-common-man-issues-18496756.html

「目指すはポケモンの世界」

兄弟は不平等で、兄は大体損な側だ。嫌なことは先を強いられ、楽しいことは後を強いられる。注射は兄が先、ムシキングは兄が後。知らない人への挨拶は兄が先、電車で席が空いても兄は後。兄がファイアーレッドになるのは弟がリーフグリーンを選ぶからである。

でも誇り高き兄は、これに異を唱えることが殆ど出来やしない。覆せないことを騒ぐと格好が悪い。兄は弟に実寸より数センチでも大きな背中を見せようとするもので、かくして兄には一生茨の道が続くことになる。

 

今日の記事⇒10/2, 2018 Dainik jagran「果物屋を営む人生を楽しむマムター

 

(引用・またもガバガバ翻訳)

「息子たちだけが家族の責務を担い得る、この考え方はすっかり変わった。将来ある娘たちは今、この伝統を壊し始めたのである。彼女たちはただ進んで家族を手伝っているだけではなく、また勉強をもしている。ムハンマダーバード地域のラットゥーディーフ・モールで果物の店を経営するマムターもまたこのような一人であり、果物屋を経営して、自分と家族の人生を楽しいものにしているところだ。彼女は一日中これに激動に費やす。しかしこれだけでなく、その間に近くの大学で、学士過程の勉強もしているのである」

 

見上げた娘である。記事によれば、マムターは、6番目の娘だが、上の5人の娘は結婚してしまい、下3人の弟と妹はまだ小さい。

 

「家族を養うために、父親はラットゥーディーフ・モールで果物屋を営んでいる。年配の父親にとって、店を経営するのは難しかった。そして弟たちはその責任を負うには小さすぎた。このような中で、家族の前に食べていく困難が立ちふさがったのだった。マムターは、店の経営の責務を負うために準備をすること、店に腰を据えることに躊躇を見せなかった」

 

「娘が店の経営者となることへの躊躇に関する質問に対しては、初めのうちはいくぶんかめちゃくちゃなようにも感じていたというが、しかし今となっては、全く躊躇はない、と答える。彼女は軽々と店を経営している。マムターによって、彼女の店には女性客も多く訪れる。マムターは、今、世界は21世紀で、女性たちが宇宙から始まってスポーツや管理職のポストにいると認める。このような中で彼女は前に進むことを全く躊躇する必要はない。自立することこそが今求められるのである」

 

日本はこういった「男女平等」に関して後進国だから、女性が家業を継ぐということは、日本でもまだそう多くはない気がする。インドでは今女性差別を是正する法案が続々と可決されていて、男女平等に関する世間の関心も高い。そんな中、「世界には活躍する女性がたくさんいるのだから、自分も既成概念に負けずに前進するのだ」力強い言葉だ。不平等は勿論あってはならないけれど、インドにまだまだ不平等が存在するそんな中でも、ひたすらもがき、行動し、茨の道を進む姿はより美しい。

f:id:yhkDELHI:20181004223020j:plain

 

YouTubeを見ていた。どこかの男性ラッパーが、女性が虐げられがちなヒップホップの世界への文句をわめくだけの女性ラッパーにこう言い放っていた。

「女のくせに文句ばかり情けない。俺が女だったら女を生かしてもっと売れていた」

これは不平等の存在自体を否定したのではあるまい。不平等な世界は、言葉だけじゃ変わりはしないということ。

不平等が溢れる世界の中で、平等が叫ばれるのは至極当然なこと、そして少しでも多くの平等を生むためには至極必然なこと。しかし行動が伴わない叫びは格好が悪い。

 

始まりがマイナスだからこそ、覆すことがより評価されることもある。より大きな背中を見せることもある。マイナスを覆すことができなくても、行動を伴った挑戦は誰かが見ている。

 

弟の前で、無様に痛みに泣き叫んだって、看護師さんは頑張ったね、と褒めてくれた。弟の前で、緊張して上手く挨拶が出来なくたって、今も名前を思い出せないおじさんは優しく微笑んでくれた。これは兄弟間の不平等を是正することに繋がらなかったかもしれない。

でもそうやって、世の兄がそうであるように、弟に少しでも大きな背中を見せようともがいて、そして成長してきた。この記事は、結果はどうあれ、恵まれない環境でも、文句を言うだけじゃなく、挑戦することや行動することは何かを生むと感じさせる。

 

ただ、俺のファイアーレッドがチャンピオンロード止まりで、弟がリーフグリーンを全クリしたのは不平等が故ではない。ポケモンはいつだって平等なのである。

 

 

(元記事:https://www.jagran.com/uttar-pradesh/ghazipur-daughters-emotions-nurturing-the-family-doing-the-shop-18490383.html